英語帝国主義論or国際英語論      2011-02-08

1992年にLinguistic Imperialismという本が発刊された。Robert Phillipsonのこの本を読んで、人々は改めて言語教育の持つ政治性を意識したのである。彼の言語帝国主義論の骨子は、「かつて、西洋の列強は武力で植民地を支配したが、現代では自らの言語を普及させることで、巧みに植民地支配を継続している」と考えて、有識者達に、critical thinkingを踏まえて、この現実の是正へと行動するようにと呼びかけている。

世界で最も有力な言語は英語であるので、言語帝国主義とは、英語帝国主義と同義になることが多い。日本では、津田幸男、大石俊一、中村敬、寺島隆吉などが、「英語が世界の情報化の中心になっている状況は英語帝国主義である」と批判している。そして、英語を教えるという行為自体が、精神の植民地化と結びつくと主張している。しかし、彼らは英語の教員をして生計を立てているので、「英語教員は英語支配に手を貸している」と非難すると、究極は自己否定につながってしまう。このあたり、彼らが書いた著作、『英語支配の構造』(津田)、『英語イデオロギーを問う』(大石)、『なぜ英語が問題なのか』(中村)、『英語教育が滅びるとき』(寺島)の中で、どのように論理展開をしているか見ていくことは興味深い。

現代では英語教育の主目的は「アングロサクソンの文化を伝えるためではなくて、世界の様々な人とコミュニケーションすることである」は共通認識となっている。中学の教科書でも三省堂のクラウンシリーズを嚆矢として多文化共生社会を意識したものになっていく。高校や大学の英語のテキストも同じ傾向が見られる。しかし、これは英語帝国主義からの反省と言うよりも、国際英語論の立場からの改革と言えよう。

国際英語論と言ってもいろいろな考えがある。世界の英語はよく3種類に分けられる。ネイティブの話すENL (English as a Native Language)、英語を第2言語として話すESL (English as a Second Language)と英語を外国語として使うEFL (English as a Foreign Language)である。どれを英語の規範とするかで国際英語論が区分けされるのである。そして、規範になるかどうかは大きな問題なのである。

規範の範囲は、教科書や辞書の作成、教員の採用の範囲を定め、必然的に大金が動くことになる。自分の用いる英語が規範となれば、出版社は教科書や辞書を作成し、語学学校は留学生を大量に受け入れて、大きな利益を得る。B. Kachruのように、ENLとESLが規範になるべきと主張するWorld Englishes論、EFLも規範になると主張する日野信行などの国際英語論がある。さらには、規範の問題を発信と受信に分けて考える人もいる。発信では、あくまでもENLしか規範として認めないが、受信は世界の様々な英語としてESLやEFLも認めていこうとする人もいる。

国際英語論の立場をとる人には、微妙な意見の差はあるが、本名信行、鈴木孝夫、末延岑生などがいる。大学英語教育学会などの学会でも国際英語論を踏まえた英語教育法が示されることが増えてきた。

しかし、英語の帝国主義的傾向を指摘する人は国際英語論とは形を変えたアングロサクソン主義の英語論であると非難する。A. PennycookとM. Holborowは、The Cultural Politics of English as an International Language (Pennycook)とThe Politics of English (Holborow)で「国際英語論とは、結局は英語の使用を提唱するものであり、それならば何をどう唱えても、英米英語の主流の座は揺るがず、アングロサクソンによる世界支配を強化するものだ」という主張である。たしかにこの主張は的を射た面もある。

私自身は、彼らの「言語教育はすぐれて政治的である」という主張は理解できるが、「国際英語論までもアングロサクソンの世界支配に貢献している」との主張は行き過ぎと考える。ただ、これからの英語教育研究は、どの立場であれ、次の2点を意識しておくことは必要だろう。
(1)経験的(empirical)な研究であり、事実に基づいていること。
(2)言語的不平等の変革を志向する批判的態度を伴った研究であること。

私は、J. Jenkinsの2冊の本が今後の方向性を示しているように思える。それは、The Phonology of English as an International LanguageとEnglish as a Lingua Francaである。彼女は、世界の様々な英語のコアの部分を取り出し、互いに分かりあえるリンガフランカとしての英語(=国際英語)を定めようとしている。同種の提案として、いままで、C. OgdenたちのBasic EnglishやR. QuirkのNuclear Englishなどがあったが、これらは個人の直観からコアを定めようとしたのである。それに反して、Jenkinsはempiricalな立場から、リンガフランカを定めていこうとするのである。その方法のみがイデオロギー過剰に陥りがちな英語帝国主義論への歯止めになるのではないかと考える。