小学校の英語教育から考える英語教育の行方 (2015/02/15)
はじめに
小学校の英語教育のあり方を問うことはどのような意味があるのだろうか。それは英語教育のあり方をその必然性に立ち戻って問うことにつながる。長い間、英語教育は日本人全員に課せられた必然であって、その必要性を疑うことは少なかった。それは教員も生徒も受験勉強の渦に呑まれてしまい、どのようにして英語の成績を上げるかという点に関心が集中せざるを得ない状態になり、「何のために英語教育はあるのか」という問いを発する機会があまりなかったからである。
ところが、小学校へ英語教育の導入が行われることで、この状態に変化が起こった。小学校の段階では、受験勉強を意識しなくてもいい。公立の中学校には試験なしでそのまま進学できる。私立の名門中学校へ進学する場合も、試験自体は厳しいかも知れないが、英語が試験科目になることはない。さらに小学校では正式な教科ではなくて、道徳や特別活動と同じ領域と考えられていて、成績評価の対象とはならない(1)。英語教育関係者たちは、試験などを意識せずに腰を据えて「何のために英語教育があるのか」という問いかけができるのである。
もちろん、中学校や高校の場でも英語教育の意義を問う人はいた。たしかに、問題意識を持った教員や教育関係者は長い間この問題を問い続けてきたのである。しかし、その問いかける声はあまりに小さかった。中学や高校における「受験」制度の存在があまりに大きいために、根本に戻って「何のために英語教育があるのか」という問いかけをすることは稀であった。
このような背景のもとで、「何のために英語教育があるのか」という問いかけを本格的にすることが、小学校での英語教育の導入を切掛けにしてはじまり、その問いが波及して中学校や高校の場での「何のために英語教育があるのか」という問いかけにもつながりつつある。そして、小中高と貫いて全体の英語教育の意義を考えることへと進む。とにかく、現代において、小学校への英語教育の導入を契機として、深く根本的に問いかけて考える切掛けが生まれた。
実は大学でも英語教育の意義を問うことはしばしば行われてきた。大学英語教育は社会に役立つべきであり、教室では実用的な英語を教えるべきであるという主張がある。それに対して、人格の陶冶を第一目標とすべきであり、教養英語を教えるべきであるという主張がある。つまり、大学での英語教育は実用英語を教えるべきか教養英語を教えるべきかという問いかけでなる。それは、大学教育はどの程度、社会からの要請に応えるべきかとの問いかけになる。今から40年ほど前は、19世紀の文学作品を法学部や経済学部の学生の英語テキストとして使うこともあったが、現代では文学作品は教材としては稀になってきている。その意味では、近年、実用英語への傾斜が著しくなっているようようだ。しかし、実用英語主義者と教養英語主義者の間での議論は続いており、最終的な結論が出たとは言えない。
ただ、大学教育の多くの場では、卒業後にどのような職業につくかを常に意識していなければならないことは事実である。観光業に就く学生には観光英語を学ぶ必要があり、医者になる学生は医学英語を学ぶのは当たり前である。逆に、仕事で英語をまったく使わないならば、英語を勉強しないという選択肢も可能である。
大学教育とは学生が社会に羽ばたく直前の教育機関であり、社会や産業界の圧力を最も強く受ける場である。つまり「社会にどのように役立つか」という観点からの問いかけになる。教養英語を教えるべきと唱える人も、その方が社会の中で生きていく学生たちの生活を実り豊かにするだろうという「実用的な視点」から主張しているとも考えられる。
このように、大学教育では語学教育の実用性という視点からの問いかけがほとんどで、英語教育自体の問題(英語を教えるべきか否か、という問題を含めて)へと発展することはなかった。その意味では、小学校における英語教育の場が、英語教育に関して最も鋭い問いかけができる場であると言えよう。
次に、子どもの成長の度合いを考慮してみたい。小学校の時期は、それ以降の中学・高校・大学の時期とは本質的に異なる点がある。それは、子どもたちの吸収力がきわめて旺盛で、可塑性が高い時期であるという点である。そのような大切な時期に、ある一定の時間をさいて子ども達の頭の中に何かを注入するのである。それは極めて有意義なものを注入しなければならない。それゆえに、英語を教えるとしたら、どのように英語教育をおこなうか、どのような英語を教えるか、それは慎重に検討されるべきである。
現状では、わが国では、2011年から、公立小学校において、外国語活動として英語活動が必須になった。いわゆる小学校の英語教育の開始である。すでに開始されているのだから、小学校英語教育に関する問いかけは、実践的な問いかけ、つまりどのように進めるかという問いかけであって、存在自体への問いかけ、つまり行うべきかどうかという問いかけを発するのは、もはや不毛であり、非生産的であるとの意見もある。例えば、2012年24年1月12日に行われた、森文部科学副大臣の定例記者会見では、副大臣は「ただ、事業仕分けで御指摘いただいた、英語の教育が小学校で必要か必要でないかという部分は、これはもう神学論争になってきていると思います。文部科学省としては、やはり必要であると。さっきも申し上げましたように、小学校における外国語活動というものが、これ必修化しているわけですから」のような発言がある。しかし、本論文ではできるだけ根源的なことから問いかける意味で、小学校英語教育が必要か否かの点まで含めて考えていきたい。
本論文の構成であるが、以上のような問題意識を持ちつつ、次のような順序で考察をしていきたい。①まず、国家としての英語教育の必要性を検討する。現在進められている小学校への英語教育の導入には、国家はどのような意図を持っているのだろうか。日本はグローバリゼーションに遅れないようにすべきと言われるが、それは小学校への英語教育の導入とどう関係するのだろうか。グローバル化の視点から本当に小学生に英語を教える必要はあるのだろうか。②次は、小学生というめざましい成長期の子どもたちの言語習得の視点である。母語を習得しつつある子どもにとって、外国語の習得はどのような影響を与えるのだろうか。小学校の英語教育は言語習得の視点から何に気をつけるべきか。バイリンガリズムとの関係は何か、などを考えていきたい。③また、英語のインプット量の問題も大切である。小学校で英語教育というシステムが十分に機能するためには、どの程度のインプット量が望ましいかという点である。仮に十分なインプット量でないとしても、それでも意味ある授業にするにはどのようにすればいいのだろうか。これは同時に音声教育や文字指導やフォニックスの問題とも関係する。④小学校の英語教育の目標は何かという視点である。学習指導要領に目標が記されているので、それに注目しながら、小学校で英語を教える意味を考えてみたい(本論文の最後に付録として、現行の学習指導要領を掲載してある)。これは日本の英語教育全体の目的とも関係するのであり、目的を達成するための途中段階の目標として小学校の英語教育の位置づけを考えてみたい(2)。同時に、中学生の学習指導要領も参照しながら、どのようにして小中の接続を行ったらいいか可能性を調べたい(本論文の最後に付録として、現行の中学校の学習指導要領の一部を掲載してある)。さらには、高校や大学での英語教育との接続までも視野に入れて考えてみたい。⑤小学校の英語教育の大きな要素は教員である。彼らがどのような問題点をかかえて、またどのように感じているか考察してみよう。さらには、教員を支援してくれる存在としてのALT(外国語指導助手)の役割も考えてみたい。さらには教員とALTの両者の関係を考えてみたい。⑥次は、テキストを考えてみたい。テキストは重要であり、小学校英語教育の成功失敗を決定する大きな要素である。『英語ノート』と対比しながら、最新の『Hi Friends』を調べてみたい。⑦公立の小学校以外の私立の小学校の動向も考察してみる。⑧また、外国の語学教育を通して、日本の語学教育を考えてみることも必要である。欧州評議会が提唱する語学教育が現在注目されているが、これは日本の小学校の英語教育にどのような示唆を与えるか検討してみたい。⑨最後に、まとめとして何点かポイントを述べていきたい。
1.国家としての英語教育の重要性
1.1 現代の日本社会における英語の必要性
現在の日本社会は、どの程度、英語を必要とするのだろうか。明治維新の時から日本は西洋諸国に追いつき追い越せが国家のスローガンであった。戦前はヨーロッパ諸国を、戦後はアメリカをモデルとしてきた。追いつき追い越すための道具が外国語(英独仏)学習であった。もちろん、その政策は強く進められた時代もあれば、逆に不要と軽んじる時代もあった。しかし、基本的には西洋諸国は日本にとって追いつくべきモデルであり、21世紀になってもその延長上に国の政策が進められていく。その重要な手段は言語学習であった。
2000年に「21世紀日本の構想」懇談会から、英語第2公用語論が発表された。そこでは、英語を日本の公用語にすべきとの提案が見られた。「社会人になるまでに日本人全員が実用英語を使いこなせるようにする」(懇談会最終報告書より)という目標が掲げられたのである。その具体的な解説として、『あえて英語公用語論』(船橋洋一、文春新書)が2000年に出版され、人々の間に一定の反響をよんだ。しかし、英語=公用語という考え自体は、全体に強い反発がありいつしか立ち消えた。
一般の人々は「英語を第2公用語にする」ほど日本社会が英語を必要としているとは考えなかったようだ。実際、国内では、英語が使われている分野はほとんどない。その意味では、この反発は当然のことであった。また、この提案の中に、産業界を中心とした声高な「グローバリズム」の主張を読み取り、産業界の計算高さや自己主張を感じて反発を覚えた人も多かった。それは、社会全体にとっての有益性とか、子どものためにという視点ではなくて、産業界の発展と生き残りという視点が強すぎると感じたのである。しかし、文科省は、繰り返される産業界からの声を無視することはできずに、2012年に、「グローバル人材育成推進事業」を打ち出した。そこでは国際的な産業競争力の向上や国と国の絆の強化の基盤として、グローバルな舞台に積極的に挑戦し活躍できる人材の育成を図ることとなった。
ところで、いわゆるグローバリズムは特定のエリートだけの利益になる恐れがある。その点は注意しながら、グローバリゼーションへ向かうべきである。英語を重視するグローバリゼーションとは、英語教育を受ける機会のあったエリートたちだけのグローバリゼーションになってはいけない。これは英米の旧植民地であった発展途上国によく見られる例であるが、日本でもイングリッシュ・デバイドが固定化される懸念がある。つまり、子ども達を英語教育の充実したエリート校(私立の小学校や中学校)へ送ることのできるエリートだけが英語教育を享受して、エリート層の再生産に繋がり、日本人全体のグローバル化には働かず、逆にイングリッシュ・デバイドが強まるのではという懸念である。
ただ、グローバリゼーションが進む現代においては、少なくとも、従来の日本の英語教育は変化すべきと考える人は多い。教養から実用重視へ、読解からコミュニケーション重視へ、早期化へ、などがキーワードとなっている。それに沿って現行の英語教育の改革が必要になってくるが、その要は、小学校への英語教育の導入である。その主張は先ほど述べた、産業界からの声に代表される。産業界は何ゆえに英語教育の改革の主張をしてくるのか。
1.2 国際競争力
「諸外国は早期英語教育を進めており、このままでは、国際化に大きく遅れをとってしまう。早期英語教育で国民全体の英語力の底上げをしなければ、ビジネスにおける国際競争力が低下してしまう」という主張が産業界に見られる。日本人が将来も生き残っていくためには、国際競争力を維持しなければならないが、そのためには英語を身につけるべきとの考えは根強い。この「国際競争力」という言葉には、強い説得力がある。
「今まで、日本人が比較的豊かな生活を享受できたのは貿易によって経済を発展させてきたからである。もしも日本が貿易の競争力を失ったらどうなるか」という不安をビジネスパーソンたちは日頃から抱いている。この懸念は産業界から文科省への強い要請となっている。また、文科省行政に強い影響を与える懇談会や諮問機関には産業界から常に有力者が委員として加わり、産業界の利益を代表する意見を述べ、その意見が反映されることも多い。
貿易戦争に負けるかもしれないという危機感は日本の各界に強い影響を与えている。産業界や文科省を推進役として、国全体で英語の力をつけていこうとする方針が強まった(3)。英語教育を国家戦略の重要な要の一つとして見なそうとするのである。また、マスコミで派手に取り上げられることもあって、現行の英語教育に関して何らかの改革が必要であるという認識が広まりつつある。英語教育関係者の多くも何かをしなければと、浮き足立っているようにも見える。改革の目玉の一つは小学校からの英語教育であった。
たしかに、貿易の競争相手として東アジアの国々の活躍がよく言及される。韓国のサムソンや現代自動車の活躍がよく報道される。一方で、ソニーやパナソニックなどの日本の代表的な会社が大幅な赤字を出しているとその苦境が報道される。造船、家電、半導体、自動車、製鉄などの、日本のお家芸だった分野で、激しい競争が続いている。今まで日本人が享受してきた高い生活水準を今後も維持していくためには、ライバル国との競争に打ち勝っていかねばならないという緊迫感を産業界は抱いている。その緊迫感は国民全体の英語力の向上に向かう。その第一歩は小学校への英語教育の導入であった。
産業界での危機意識は自らの会社内での英語化という動きで示される。いくつかの会社の動きを見てみたい。英語の社内公用語化の動きが注目されている。『毎日新聞』 (2012年10月8日)の「英語漬け、会議、資料、食堂も」という記事によれば、2010年に楽天は三木社長のトップダウンで英語の社内公用化を決めたという。社内のミーティングはすべて英語でやり取りして、また配付資料もすべて英語で行うという。社内食堂のメニューもすべて英語で書かれているようだ。全社員1万人のTOEICの平均点は700点以上であり、ことしの新入社員の平均点は800点以上を越えたという。また、ユニクロで有名なファストリテイリングも2012年3月から、英語を公用語化したという。全社員の14,000人にTOEICで750点以上を取ることを義務化したという。
これらの会社の動きに対して連想されるのは、サムソンの新入社員のTOEIC平均点が900点を超えている点である。サムソンは入社時の留学経験者も文系職種で約40%、技術系で約50%いるという。サムソンの急成長は英語能力の高い社員たちによるとの見方が一般的である。成長を可能にしたのは、韓国が小学校の時から、英語教育を充実させているとの認識である。そして、韓国の徹底した英語教育は、日本も見習うべきであると唱える人も多い。
バブル時代は日本の経済力は最盛期を迎えて、「欧米から学ぶものはもうない」という傲慢な言葉さえ聞かれた。日本語を海外の人々が盛んに学ぶようになったのである。そのことは日本人の自尊心を大いにくすぐった。ところが、そのバブル崩壊後の長い不景気の時代には、振り子は逆方向に大きく振れて、日本人の自信喪失の時代になった。国際競争力(=英語力)をつけなければ生き残れない、という意識が次第に強まったのである。これは明治時代から伝統的に日本人は外国語への接近と反発を繰り返してきたが、これは最新の接近の動きであろう。
貿易の競争が国家同士の総力戦であるとすれば、英語力は自国の商品を国外に売り込む有力な武器となる。ビジネスチャンスの発見、新技術に関する情報の入手、特許情報、様々な分野で英語力は有利な武器になりそうである。世界の各国はそのことの意味を知っていて着々と対策を進めているように見える。韓国の教育省の明言している外国語教育の趣旨は、「インターネット時代の国際語である英語をマスターして世界競争に勝つ」とある(中田 2011: 166)。つまり、英語教育をそれ自体に教育的価値があるからという判断ではなくて、国家の競争力という基準で行おうとしているのである。
1.3 産業界に広まる英語利用
産業界でのTOEIC採用の動きも上記の動きに連動するのである。採用や昇進やボーナスの目安にTOEICのスコアを使おうとする考えである。英語の研修に力を入れる企業が増え、英語能力を測る物差しとしてTOEICを採用するようになった。たしかに、社員の採用、昇進、海外駐在員の選抜などにTOEICのスコアを活用している企業が増えている。
その動きが受験者数の大きな増加につながっている。近年、TOEICによって測られる英語力は確実に伸びている。国際ビジネスコミュニケーション協会(2012:2)によれば、内定時にTOEICテストを実施する企業では、2006年では平均が448点であったが、その5年後では、平均が499点となり、かなりの上昇を示している、と報告している。
社内での英語の活用は、マスコミによく取り上げられて話題となっている。日産が外国人の社長カルロス・ゴーンを迎えて、経営会議などでは英語で議論するということが、1999年当時大きな話題になった。しかし、日産の会社員が全員英語を話すようにするまでの徹底した方針ではなかった。その点、楽天の動きはかなり極端な例になるだろう。しかし、今までは例外的な動きだが、今後はこの傾向が広まるのもしれない。
これらの社内英語公用語化の動きに対して、批判的な声もある。たとえば、成田一の批判を聞いてみよう。成田(2011)は、「『外国人が交じる会議は英語にする』というのも実は問題がある。母語は言語中枢でほぼ自動処理されるが、英語だと日本人は発話の聴取・理解や発話構成をかなり意識的に行う。その際に脳の思考活動を担う作業記憶が占有され、論点を分析し対案を考える余裕がない」と脳科学の立場から批判している。要は「交渉という言葉の戦い」をするときに、母語を使わないで、はたして公平な戦いができるかという疑問提示である。
社内英語公用語化では、英語を中心に据えていることで、英語以外の言語の軽視につながるという観点からの批判もある。さらに、成田(2011)は次のように述べている。
『グローバル化=英語化』ではない。日本は生産と販売で中国への依存を高めているが、工場内の従業員に英語は通じない。中国の大学には日本語専攻の学生も多く、卒業生や日本留学経験者を要所に配すれば、文化・風習や就業意識が日本とは違う現場の労務管理が適切にできるし本社との連絡も問題ない。欧州、アジアでも、旧英米植民地以外では、人材も言語も現地化するのが現実的だ。中南米はスペイン語だ。英語力は海外業務に携わる社員に求めれば済む。現地での技術教育も通訳を介せば誤解がない。
ここで注目すべきは、多言語化への視点を示している点である。グローバル化を英語化と考えるならば、大きな問題であるが、多言語を理解するという方向に進む方向ならば、肯定的に考えるべきとの意見である。実はこの点は後述するCEFRの考えとも重なり、重要な視点である。日本の会社などでは、英語単一主義への傾斜が見られるが、その点が無反省になっているとの懸念がある。小学校で外国語活動=英語活動では、外国語とは英語のことであり、他の言語を話す人の姿が見えなくなる。小学校からそのような意識を植え付けていいのかという疑問も出てこよう。
また英語帝国主義論で有名な津田幸男は『英語を社内公用語にしてはいけない3つの理由』というそのものずばりのタイトルの本を書いて批判している。その理由として、①日本語・日本文化の軽視、②社会的格差・不平等の助長と固定化、③言語権の侵害を挙げている(津田2011)。このように有力な英語教育者たちから繰り返し社内公用語化に対して疑問の声が上がっているが、このことは常に念頭に置くべきであろう。
1.4 国際競争力と英語教育は結びつくか
国際競争力と英語教育がどのように結びつくかは不明である。国際競争力は、その国の科学技術が発達して産業が魅力的な製品を作り出すことで生まれてくる。国際競争力と直接的に結びつくのはその国全体の知的水準である。国全体の知的水準を上げるには、国民全員が英語の本をすらすら読めるようにするのではなくて、すぐれた翻訳書を刊行して学問の成果を国全体に広めるようにしたほうが効率的である。
日本の知的水準を高めるために、日本が必要とするのは翻訳書である。時間をかけて苦労して原書を読んだとしてみよう。しかし、翻訳を読めば、はるかに短い時間で、はるかに深く読み取れる。原文を読めば深く理解できるという人がいるが、それは大学の教室で学生達が1年ぐらいかけてゆっくり読む場合であり、普通の人にはそのような時間的余裕はあり得ない。それだけ、翻訳の効用は大きいものであり、その恩恵を知るべきである。
翻訳で世界の様々な文献が読めて、各分野において日本語で用が足せることの効用は再確認する必要がある。翻訳は日本をここまで発展させた原動力である。英語だけに頼っていたら、学術や文化がエリートの独占物になっただろう。つまりイングリッシュ・デバイドが固定化されたと思われる。しかし、現実の日本では、固定化は起こらずに、翻訳によって、外国の様々な学術や文化が一般の人にまで広まったのである。そのために、人々の間の知識の格差が少なくなり、それゆえに経済的な格差も少なくなった。これは日本の歴史において特筆すべき点である。
日本では日本語が十分に機能している。科学・技術・行政・立法・司法・マスコミ・教育・産業の各分野で日本語が十分に機能している。多くの外国語の文献が翻訳されており、日本語で読めることが多い。母語では専門的な分野をカバーできない発展途上国の人々と比較して、日本人の英語力の低さを嘆くことは誤解を招く恐れがある。
英米の旧植民地諸国では、英語教育が進んでいる、あるいは進んでいるように見えるのは、その国の言語が国家運営の機能を担うことができずに、学術の言語として機能できないので、仕方なしに英語に頼っているのである。そのために、英語教育に力を入れざるを得ないからである。彼らもできれば自国語でこれら全機能を行いたい。しかし、歴史的な制約からそれができないのである。これらの国々では、英語力の差によるエリート層と大衆の格差があり、いわゆるイングリッシュ・デバイドが存在するのである。そして、その格差を埋める手立てはなかなか見つからない。それは、英語力という貧しい人たちには入手できない手段を用いて情報の独占をはかり、それが富の独占に結びついているという構造が長い歴史の中で確立してしまい、今ではそれを変えることはなかなか難しいからである。英語教育とは国によっては、不公平な富の分配につながるのである。
これらのことを考えると、英語教育と国際競争力の結びつきは希薄と思われる。さらに、考えると、小学校の英語教育と国際競争力の結びつきはもっと希薄になる。小学生を将来の「英語が使える」企業戦士にしようとして今から鍛え始めるのは早すぎる。語学学習のように膨大な時間を費やすものは、その人の覚悟が必要であるが、それは、ある程度自分自身が分かる年頃にならねばならない。小学生では英語を専門的に勉強するという判断を下すのには早すぎる。中等教育以降からの勉強でも時間は十分に間にあうと考えられる。
このように産業界が提示する論理では、小学校で英語教育をおこなう論理とはなりえない。すると、小学校からの英語教育を支える論理は何であろうか。その答えは他に求めなければならない。
1.5 国際語としての英語
小学校からの英語教育を行う理由は、国際競争力の向上というような産業界しいては国家の要請で行われるべきではなくて、そのこと自体が子どもたちのためになるかどうかという視点から行うべきである。
教育的な視点とは学習者その人にどのようなメリットがあるかという点に注目することである。児童が成人してからも生涯ずっと国内にとどまる限りは、英語はほとんど不要である。しかし、児童たちが国外に行く可能性があるとなると話が異なってくる。児童たちが成人して海外で生きていくとしたら、コミュニケーションのための手段である国際語としての英語が必要となる。早期英語教育の必要性は「国際語としての英語」の中に見いだすことができる。
国際社会に目を向けるならば、英語の重要性は否定できない。日本社会は国際社会にがっちりと組み込まれているので、その関与は深まる一方である。例えば、現代では日常の交通手段になっている航空機だが、現在、航空業界では英語が標準語となっている。パイロットと管制官は英語でやりとりをする。たとえ、日本の国内便であっても英語で交信しなければならない。
もう一つの例を挙げてみよう。学術論文だが、近年、次第に国際化しており、とりわけ理系の学術論文は英語で書くことが要求されつつある。国外の研究者の存在を意識した論文では、英語で書くことが常識になってきている。様々な国際会議でも英語での意見交換が普通になってきており、それ以外の言語が使われることは稀になってきている。
インターネットで代表される電子機器の発達だが、これは世界を一つの大きなグローバルヴィジレッジ(地球村)化している。そこでは、英語が共通語として使われる可能性が出てきた。それは、英語が使えないと、そのヴィレッジで仲間はずれになる可能性であると言ってもいいだろう。電子機器の発達は日進月歩であり、もしかするとその発達は長期的には英語にとって不利に働くことがあるかもしれないが、とりあえず、現段階では英語を普及させる原因となっている。
世界全体を1つの大きな言語社会とするならば、上位語として英語が位置して、その下に各言語が並んでいるという構造がある。世界の様々な言語の話者の国際間の交流は、共通言語である英語を媒介にして段々行われるようになった。そして、児童たちの中には、将来は国内だけにとどまらないで、国際的に活躍する者もいるだろう。学校教育の場では、将来は「国際的に活躍するかもしれない」という児童の持つ潜在的な可能性に注目すべきである。ただ、その場合は、その子どもが必要とする外国語は国際共通語としての性質を持つ英語でないかもしれない。もっとマイナーな言語かもしれない。それゆえに、必要なのは、どの言語を学ぶときにも応用がきくような普遍的な言語知識や、言語を学ぼうとする積極的な態度、あるいは自立的に言語を学んでいく学習方略である。小学校では、どの方向にも伸びることの出来る土台を提供すべきである。それが語学の力を伸ばす素地を養うことでもある。
2.言語習得の視点から
2.1 子どもの吸収力
子どもの頭脳は何でも吸収する大きなスポンジのようなものである。さまざまなことを急速に吸収して、次第に大きくふくれあがっていく。大人になると吸収する力が衰えて、次第にゆるやかになり、やがては止まってしまう。これは、我々一般が描く子どもの成長の姿である。
吸収する力の強い子ども時代に、いろいろなことを吸収させたいと願うのは、どこの親でも同じである。自分の子どもの持つ様々な可能性ができるだけ開花してほしいと願い、その一つとして、英語が話せるようになってほしいと願うのである。しかし、早くから始めれば英語に流暢になる、とは簡単に言いきれない。
臨界期という言葉がある。言語に関しては、ある時期を逃すともう言語習得が不可能になる期間を指す。19世紀初めに、フランスでは、アヴェロンの野生児と呼ばれる少年が評判になった。幼くして親に捨てられて、人間と接する機会がないまま成長したが、12歳頃にふとしたことで発見されて人間社会に復帰したという。しかし、周りの大人たちが言語を熱心に教えても、発声できるのは数語であり、結局は通常の意味での「話し」はできなかったという。
この少年の逸話が教えることは、生まれてから10年ほどの間は言語習得にとって大切な時期であり、この期間を逃すと、もう言語習得の機会はないということである。幼児期と同じく、小学校の時期も重要な時期である。この時期の子どもの知的発達は著しい。言語能力もそうであり、大人が目を見はるほどの発達である。語彙の増加だけでなくて、いわゆる身の回りのことを述べる言語から知的・抽象的なことを語る言語へと内容のレベルが高まるのである。このように母語の習得には比較的短い時期に集中的に行われる。
しかし、この臨界期の概念がそのまま外国語学習にあてはまるのではない。すでに母語を習得していて、言語学習の基盤ができている者にとっては事情は異なる。外国語として言語を学ぶときは、臨界期という概念はそれほど厳格に当てはまらない。中学生になってから外国語を始めて、達人となった例はたくさんある。あるいは、30歳、40歳から始めても、かなり上達する人がいる。母語を学ぶプロセスと外国語を学ぶプロセスはいくつかの点では異なるので、外国語の学習は、早ければ早いほどいいとは簡単に言い切れない。たしかに母語の学習には臨界期という概念が通用するが、外国語の学習には、臨界期という概念よりも、もう少しゆるやかな敏感期という概念が相応しいとも考えられる。
2.2 生活言語能力と学習言語能力
言語能力を、生活言語能力(BICS)と学習言語能力(CALP)(4)に分けると言語習得のプロセスが分かりやすくなる。生活言語能力とは、日常生活を営むときに、他人とコミュニケーションする能力のことである。小学校に上がるまでには、子どもは身の回りのことに関してだいたいの意思伝達が可能になってくる。子どもは生活言語能力を6歳ぐらいまでには、ある程度完成させる。一方の学習言語能力は、知的抽象的な概念を操作する言語能力であり、学校などで訓練により学ぶ言語能力である。子どもは、大体12歳ぐらいまでに学習言語能力の基礎を身につける。小学校時代は、母語に関しては、生活言語から学習言語へと発達する時期なのである。
二言語相互依存説とは、カミンズ(J. Cummins)の唱えた理論で、二つの言語を学ぶ際には、学習者の中では、これらの二言語は相互に共有している部分があるという仮説である。それによれば、二つの言語の表層の部分(生活言語能力)は異なって見えるが、基底の部分(=学習言語能力)は相互に重なっている。基底部分は、目立たないが、きわめて大きくて、ちょうど氷山の海面下の部分に似ているので氷山説とも言う。
言語の知的抽象的な部分(=学習言語能力)は、言語が異なっても、共通する箇所がたくさんある。ある言語で学習言語能力を身につけたならば、他の言語の学習言語能力へ転移できる。日本語で分数や小数点の内容をすでに理解しているならば、分数や小数点を説明した英文は容易に理解できるのである。
知的抽象的概念は各言語が共有することができ、母語における知的抽象能力が外国語の学習を通してより深まる面がある。その意味で、ある程度成長して母語の能力が学習言語能力まで達してから、外国語を学習するのは、理にかなったことなのである。
2.3 国語と英語の連携
学術誌『英語教育』の2006年5月号では、「英語力と国語力をともにそだてるには――」という特集を組んでいる。従来の言語教育では、日本語と英語を別々に伸ばしていくという考えであるのに対して、両者を一緒に伸ばそうとする考えである。カミンズの理論を踏まえて、山田(2006:10)は「この基底能力は...母語1つだけでも開発できるが、それに2つめの言語が加わると立体的になる」と述べている。このように、基底能力(=学習言語能力)のレベルで立体的な能力が開発され複眼的な意識を持たせるようにすることは、英語教育の大きな目標の1つである。この意識は将来他の学問をする場合でも転用がきくであろう。
小学校は、子どもが思考する力を育てる重要な時期である。この時期の子どもたちは、言葉そのものの仕組みに関心を持つようになる。日本語と連動させながら、英語やその他の外国語を教えることは意味がある。文法には主語という概念があり、英語の文には必ず主語が現れるが、日本語の文では現れない場合がある、などを教えることによって言語自体への理解が深まる。メタ言語的な知識を持たせることは大切なことである。
言葉遊び、しりとり、韻を踏むこと、なぞなぞなどは子どもの言語に対する感受性を高める。また、名前の呼び方なども注目させると面白い。日本語では姓名の順だが、英語では名姓の順である。これは何故だろうか、といった疑問をいだかせることは大切である。高学年にもなると、そんな疑問を出発点として、西洋社会と日本社会の違いのような点にまで関心が進んでいく。
その意味で、現在小学校では、外国語活動は音声中心で教えるべきとなっているが、ある程度はメタ言語的な知識を提供してもいいのではないか。またアルファベットなどの文字の学習も負担にならない範囲で行えば、むしろ知的好奇心を刺激するものとなろう。読解や文法構造に関して、深入りは避けるべきだが、適切な範囲内で行ったほうが児童の知的発達を促進する。
2.4 バランスのとれたバイリンガル
学習言語能力を身につけるには、かなりの努力が必要となる。一般に、学校教育を通して、膨大な時間と労力をかけて習得する。12歳ぐらいまでには、母語によって知的抽象的な概念を理解する能力の基礎が身につくのである。しかし、12歳以前に膨大な量の外国語をインプットすると、母語による知的な言語発達を阻害する恐れがある。そうなると学習言語の能力に関して、両言語ともに生半可な知識しか習得できなくなり、知的抽象的な思考が苦手になる場合がある。一つの言語の学習言語能力は他の言語の学習言語能力に転移すると述べたが、それは、まず一つの学習言語能力が確立してからである。まだ母語も外国語のどちらも確立していない場合は該当しない。
そのことを学問的な言い方をすれば、母語の知的な能力を伸ばしてから、外国語を学習すれば加算的バイリンガリズム(両方の言語能力が互いにプラスに作用する)になる可能性が高まる。しかし、母語による知的発達をする前に、多量の外国語をインプットすると減算的バイリンガリズム(両方の言語能力が互いに否定的に作用する)になる恐れが生じるのである。
小学校の段階では、母語である日本語の学習が中心となる。英語の学習がそれを妨げるのではなくて、促進するように行われるべきである。それには、国語と英語の連携が考えられるし、国際理解に軸足をおいた教育や、コミュニケーション能力の素地を養うことに徹した教育も考えられる。そのような教育と、英語のインプット量とはどのように関係するのか。
3.小学校での英語のインプット量
3.1 インプット量とイマージョン教育
現在の学習指導要領では、小学校の5年生と6年生の時に、週に1コマの英語活動を行っている。週1コマという英語のインプット量をどのように評価すべきか。「この程度の限られた量のインプットでは、覚えたことを定着させることは難しい」、「少々覚えたとしても、すぐに忘れてしまうのではないか」、「結局は、英語の語句をいくつか覚えること、つまり、断片的な知識を得るだけになる」、「いわゆる早期教育のメリットを生かすことはできない」との不満の声があがると思われる。
英語のスキルを教えるには、たしかに、週1コマでは時間不足は否めない。体系的にじっくりと教えるためには、週2コマ以上はほしいところである。しかし、数を増やそうとすると、小学校では重要な科目が目白押しである。算数や国語などは子どもの知的発達に必須の科目である。さらには、理科や社会などの科目も無視できない。これらの重要な科目のコマ数を減らして、英語のコマを捻出することは可能だろうか。
カナダなどでは、イマージョン教育(=目標言語漬けの語学教授法)の成功例がよく報告されている。しかし、成功したのは、フランス語という英語と類似の言語の習得を目標とするイマージョン教育であり、学校外でも、フランス語と普通に接触することができるという好条件があったからである。そのような条件のない、日本において英語のイマージョン教育はかなり難しい。
インプット量を増やす工夫の一つとして、社会や算数などを英語で教える授業例を報告している。教科横断的指導である。英語を英語の授業時間だけではなくて、他の教科の授業で使うのは小学校では、新しい試みである。これらは児童の知的水準にも応じて、英語を介して教科内容をも教えようという試みであり、同時にトータルの英語インプット量を増やすことにもなる。ただ、この方法は試行錯誤の段階であり、小学校で導入を云々するのは時期尚早であろう。
3.2 学習指導要領の改訂とコマ数
2014年11月20日の『日本経済新聞』によれば、正式教科でない「外国語活動」として実施している小学校英語の開始時期について文部科学省が現在の小5から小3に前倒しする方針を固めたことが報道された。3、4年は週1~2回ほど、5、6年は週3回実施を想定している。小5からは教科に格上げし検定教科書の使用や成績評価も導入する。早い時期から基礎的な英語力を身に付ける機会を設け、国際的に活躍できる人材育成につなげる狙いとのことである。今後、教科書の検定基準や評価方法などを検討して、中教審の議論を踏まえて学習指導要領の改定に着手して、2020年までの実施を目指すとある。
2020年の東京オリンピック・パラリンピックを見据えて、それまでに教育体制の整備を図ろうとしているようだ。小学校5・6年生で英語を正式な「教科」とすることや、教員の「英語力」を公表する仕組みを設けることで人々の小学校の英語教育への意識が変わっていく。正式の「教科」となることで、本当は望ましいことかどうかは別として、英語の点数をどのように上げるのかという点に児童や教員たちの意識が向かうようになるだろう。それは小学校の英語教育の是非自体を問う段階から次のステップに移ることになる。ただ、本質的なことを問うことがなおざりにされることがあれば、それは問題である。本質的な点がしっかりと共通理解されてから、次の段階へと進むことが望ましいのだが。
3.3 小中高の英語教育のこれからの動き
文科省の改革の動きを受けて、小学校から高校まで英語教育の場はかなり変化していく。小学校高学年では教科型となり週3コマ程度で、「モジュール授業(5)」も活用することになる。そこでは、児童の初歩的な英語の運用能力を養うのだが、そのためには英語指導力を備えた学級担任に加えて専科教員の積極的な活用を行うことになる。
中学校では、身近な話題についての理解や簡単な情報交換や表現ができる能力を養うことが目標となる。そして、これは物議を呼んでいるのだが、現実的に可能かどうかは別にして、授業を英語で行うことが基本となっていく。
高等学校では、これらの英語力の積み上げの上で、幅広い話題について抽象的な内容を理解できる、英語話者とある程度流暢にやりとりができる能力を養うことが目標となる。そして、授業を英語で行うとともに、言語活動を高度化(発表、討論、交渉等)することも目標として付け加えられる。
これらの目標が実現可能かどうかはさておき、このような目標が定められたならば、中学校や高等学校でこれらの目標が可能になるようにするための土台つくりが小学校での英語教育の仕事になる。
3.4 インプット量、音声への敏感さ、発音の習得
多くの親が早期英語教育に関心を示すのは、早くから学べば英語が話せるようになるという考えを持っているからであろう。しゃべれない日本人としての反省から子どもには早く学ばせようとしているのである。それはいわば、親の若い頃のコンプレックスの裏返しである。
しかし、「小学生のころから英語に慣れ親しんでいれば英語が好きになる」や、「英語の聞き取りや発音が良くなる」というのは神話に過ぎない。もしも、それを可能にするならば、学校教育の半分の時間は英語で行うだけの覚悟が必要となってくる。早期英語教育を提唱する人は、子どもが音声を簡単に習得することを論拠に上げることが多い。子どもは語学の天才だと言われる。家族がそろって外国に移住すると、たしかに、子どもはしばらくすると現地の人と同じような発音をするようになる。子どもはやはり覚えが早いと大人たちから感嘆の声があがる。しかし、それは発音だけが、とりわけ頻繁に用いる言い回しの発音が、現地の人々の発音に似てきただけのことである。言語を論理的に展開した話し方ができるのではない。言語の完全な習得には、さらに長い道のりがかかるのである。
赤ん坊の耳は、あらゆる音を聞き分けることができるそうである。しかし、全ての音に対して開かれていることは非効率なことなので、次第に母語に使われる音にのみ敏感になり、他の音は無視するようになる。最終的には母語で使われる音のみを知覚して、無関係な音は知覚できなくなる。これは効率の点から見ても当然である。日本社会の中で、日本語の世界に生きるならば、日本語の音声のみに敏感になっていくのである。
日本という場所で、英語の音声の訓練をするということは、その自然の成り行きに干渉しようというのであるから、かなりの労力がかかる。週に1コマの英語活動の中で、あるいは英語の教科化が進み週に3コマの授業となったとしても、3コマ程度の授業数の中で、どのように音声を訓練していくのか。かなり難しいのではないか。
その場合には、考え方の180度転換が必要かもしれない。たとえば、アメリカ英語の発音を神経質に真似るのではなくて、日本人ならば日本式英語の発音で大丈夫と割り切ることも1つの考えである。
小学校のうちは音声面の訓練を中心にすべきと言われている。たとえば、音声を中心に、ゲーム・歌・チャンツを重視することである。現学習指導要領では、「外国語でのコミュニケーションを体験させる際には、音声面を中心とし、アルファベットなどの文字や単語の取扱いについては、児童の学習負担に配慮しつつ、音声によるコミュニケーションを補助するものとして用いること」とある。文字指導はあくまでも補助であり表舞台に出てはいけないようだ。たしかに、諸外国の例をみても、導入のはじめは音声中心である。
発音向上につながるためには単に音を聞かせるだけではうまくいかないことが多いので、一工夫が必要である。教員の発音の訓練は是非とも必要となる。小学校の段階では、島岡メソッド(6)の活用も可能と思われる。それは、綴り字にこだわらず、英語の発音に近い片仮名で英語の発音をイメージすることのほうが、有効な発音矯正ができるとの考えである。たとえばdrinkという綴りから想像する音よりも、ヂュインクのほうが通じやすいとの考えである。
小学校では音声重視だけでよいかどうかは、実は疑問である。小学生でも学年があがれば、その知的レベルは上がっていく。とりわけ、小学生の高学年ならば、知的な観点からの学習に強い関心を持つようになっている。文字指導や文法を教えることは彼らの知的な刺激に役に立つことでもある。書き言葉と文法の指導は小学校英語にとってタブーであるとは思えない。ある程度のレベルは許されるべきではないか。文字指導を積極的に行った方が効果的であっっという報告はいろいろなところで見ることができる。
3.5 文字指導の問題
英語が英語活動から教科へと格上げになると、どうしても「文字指導」が必要になる。外国語活動の一種としての英語活動では、「素地」を養うことが目標なので、そこでは、文字活動はさほど重視されてこなかった。しかし、教科化として本格的な英語を教えるならば、文字指導は、少なくともある程度は役に立つだろう。言語活動をする際に 例えば「Do you like ◯◯ ?」 と書いた紙を見て、インタビューゲームなどをやると音と文が一度に取り入れられ、学習効果がある。また、小学校の高学年の児童はある程度は知的レベルも上がるので、英語の文字や文を書くことに興味を持ってくる。これらの知的好奇心の発展を活用するのが望ましい。
いずれにしても、文字指導をどのように発音指導に結びつけるかが一つの問題である。フォニックスの指導を取り入れるのも一つの方法である。フォニックスには、児童が正しい音声習得ができるようにするために、文字指導を行うという面があるし、同時に英語の文字のスペルの面白さ深さを教えるので、児童の知的な関心を刺激する面もある。現在は、全体で週1回という限られたコマ数のもとでは、課外授業やクラブ活動のような、あくまでも補助的な時間内にフォニックスで教えることになろうが、学習指導要領の改訂を切掛けとして、週に3コマの授業が可能になるならば、本格的にフォニックスを教えることも可能だろう。
このように、音声の習得という観点からは、授業のコマ数は少なすぎるのではという疑問がでるだろう。そのために補うことで、上記の島岡メソッドやフォニックスの指導を補助的に行うこともよい考えであろう。ただ、ここで英語活動の目標を明確化することで、週1コマの活動でも有意義となる点を指摘しておきたい。それは、英語活動の目標を音声の訓練というようなスキルの習得とするよりも、国際理解教育を中心におくことである。それならば、週1コマでも十分に満足のいく結果が得られる。その点を学習指導要領の中味を見ることで検討してみたい。
4.小学校での英語教育の目標は何であるか(学習指導要領を参考に)
4.1 英語教育の究極的な目的
小学校の英語教育は、小学校という狭い範囲だけで考えるべきではない。まず国全体の言語教育の目的が決まらないといけない。そして、その目的を踏まえてさまざまな教育分野での目標が定まっていく。そのために、日本人にはどのような語学教育が必要かという点で国民的な合意ができている必要がある。
また、言語教育という高次の次元での政策ならば、国語教育や他の外国語教育とのバランスが必要である。世界のいくつかの国では、文系の科目は国語で、理系の科目は英語で学ぼうとしているように見える。日本でも時々産業界を中心に、理系の科目は英語で学ぶことが効率的だとの声が時々聞かれる。しかし、これは第1章でのべたように賢い方法とは考えられない。大学教育などのある一定のレベルに達した段階ならば、そのように教授言語を分けることも実験的にはあり得るが、初等教育、中等教育のレベルでのそのような試みは避けるべきだろう。
4.2 国際理解教育か言語教育か
小学校の英語教育は、「国際理解教育」であるべきか、それとも英語力の伸長をめざす「言語教育」であるべきか、という議論が行われてきた。2002年から施行された学習指導要領(以下、旧学習指導要領と称する)では、英語活動は「国際理解教育に関する学習の一環」として位置づけられていた。
その中に、「総合的な学習の時間に、例えば国際理解などの学習活動を行う」とあった。さらに、「国際理解に関する学習の一環としての外国語会話等を行うときは、学校の実態等に応じ、児童が外国語に触れたり、外国の生活や文化などに慣れ親しんだりするなど小学校段階にふさわしい体験的な学習が行われるようにすること」とあった。
つまり、外国の言語・生活・文化などに「触れたり、慣れ親しんだりする」ことが主眼なのである。小学生の時から「外国の生活や文化に慣れ親しむ」ことによって、偏見を持たない行動、心の広い態度へとつながることが期待されている。異民族に対して我々はステレオタイプのイメージや偏見を持ちがちだ。しかし、慣れ親しむことで、偏見がなくなることは多い。その意味で、総合的な学習の時間を利用して異文化に触れることは、すぐれた試みである。
しかし、文科省の本音はどうやら言語教育であって、旧学習指導要領の文言は、そこへ至るための布石、であるという見方があった。文科省は最終的には英語教育を正式の教科として格上げしたいようであるが、そうすれば反発も予想されるから、とりあえず、総合的な学習の時間に、児童に対して英語を触れる機会を与えておき、将来の英語の教科導入への布石にしようとしたと言われていた。2011年から施行されている学習指導要領(以下、現学習指導要領と称する)では、その点はどのように異なったであろうか。
現学習指導要領の「外国語活動においては、英語を取り扱うことを原則とすること」との文言にも注目したい。「原則として」という文言がついているが、「外国語=英語」という等式が成立している。これに対して、外国語教育とは英語教育に限るべきではなくて、さまざまな言語を提供すべきとの考えがある。とりわけ国際理解教育の立場からは、様々な言語や文化に触れることが望まれる。「外国語活動」の時間を真の意味での「外国語活動」の時間にすることが望まれる。
外国語活動にあまり制限が加えられなくて、教員の自由な考えで行ってきた時代を懐かしいと考える声もある。それは「活動」と位置づけられていたゆえに自由だったのである。逆に言うと活動となっているがゆえに、教員側は熱心に取り扱わない、まだ教科ではないので真剣さを欠けるものがあった点は否定できない。とにかく、教科化されていない事によるメリットがいくつかある。次はある匿名の小学校の先生の言葉がある。それを紹介しておきたい。
私は、公立小学校で5年間英語の支援協力員として英語を教えたこがあります。そのときは、5,6年生の英語必修化以前の時期だったのでまだ「外国語活動」といわれ総合的学習の一環でした。学校にもよりますが、当時は『Hi Friends!』 などもなかったので、自由に授業案を組み立てることができ、私はどちらかというと国際理解のテーマを中心に、英語を使った授業をしていました。小学校では、中途半端な英語を教えるならば国際理解色の濃い授業内容にした方がむしろ小学生には楽しめる内容になると思います。回数も週1回でなくても十分です。
このように国際理解に重点をおいて教えることができたのである。教科化で細かくカリキュラムが定まると窮屈と感じる教員がいる。また、逆にテキストやカリキュラムがあった方が指針となり役立つとの考えもある。結論的に言えば、どちらも極端な考えは避けるべきであり、ある程度の大枠の中での、自由な授業が回答となるのであろう。
なお、国際理解と多言語主義だが、諸外国の例をみると、英語以外の言語を教育の場で必修化している例が多い。EUでは、母語+2つの言語(母語に加えてEUの公用語を2つ)を学ぶように奨励している。日本のように英語のみに集中していく態度は例外的であると有識者からよく指摘される。国際理解教育を意識するならば、英語以外の言語を無視することはできない。この点で、欧州諸国の例は参考になる。
繰り返すが、旧学習指導要領が持っていた「国際理解教育の一環として」という性格は、ある程度は現学習指導要領にも受け継がれているが、全体として、言語教育という側面が強まったのは間違いない。
4.3 教養か実用という問いかけ
2014年10月7日に実践的な職業教育を行う新たな高等教育機関の制度化に関する有識者会議(第1回)が行われた。そこでは、経営共創基盤CEOの冨山和彦氏より、グローバル人材を育てる「G(グローバル)型大学」と、職業訓練校的な教育をほどこす「L(ローカル)型大学」の提案が出される。L型大学では、従来の英文学部は、観光業で必要となる英語、地元の歴史・文化の名所説明力を学ぶ学部に変化すべきとしている、とかなり大胆な提言でかなりの注目を浴びた。
大学の英語教育は教養主義であるべきか実用主義であるべきかという問いかけは何度も繰り返し出てきたテーマである。この富山氏の提案はその最新版である。同氏は大学をエリートを育てるグローバル型大学と一般大衆へ実技を教えるいわば職業訓練校・専門学校的な教育を提供するローカル型大学に分けるのである。ただ、この2分割の提案は大学教育の場では、意味があるとしても、小学校教育の場ではこの考えは取り入れるべきではない。すなわち、小学校の段階では、教養英語か実用英語かという問いかけは妥当な問いかけではない。将来どの方向にも向かえるような能力をはぐくむ、その意味では普遍的な能力、素質と言い換えてもいいだろう、を作り上げることが必要なのである。
4.4 学習指導要領と多文化主義
学習指導要領における多文化主義はどのように考えられるのか、中学校も高校の学習指導要領も多言語主義の観点からの説明はない。この点でCEFRがヨーロッパの多言語状態からインスピレーションを得たことと対比的である。言語や人種に対しての偏見はどのように取り扱うのか。これまでは、日本人の子どもたちが西洋の言語には肯定的なイメージを抱き、アジアアフリカの言語には否定的なイメージを抱くのは教育の効果であるとも考えられる。この点で、1947年の学習指導要領で述べられている目標は、森住(2012:6)によれば、以下のようである。
①英語で考える習慣をつけること。②英語の聴き方と話し方を学ぶこと。③英語の読み方と書き方を学ぶこと。④英語を話す国民について知ること、特に、その風俗習慣および日常生活について知ること。(①については「英語を学ぶということは、できるだけ多くの英語の単語を暗記することではなくて、われわれの心を、生まれてこのかた英語を話す人々の心と同じように働かせること」とある。
森住は、英語教育の目標が「英語を話す人々と同じように働かせること」という文言を指摘して、当時はこのような考えが一般的であったと述べている。この指導要領の目的は、英語教育を通して、われわれを「英米人」に仕立て上げることになる。このような考えは、1951年の指導要領の改訂以降はなくなり、現代の指導要領に至っている。しかし、根底ではまだかなり残っていると考えられよう。現在の高校の学習指導要領では、英語による授業をかなり強調している。それは英語を話す人々と同じように頭を機能させることに繋がり、1947年の学習指導要領への先祖返りであるとも言えよう。
もちろん、近年の教科書では文化的多様性をできるだけ反映させるようになっていて、特に三省堂のCrownシリーズなどは、その傾向が顕著である。ただ、他の教科書などは、1947年の指導要領の思想がある程度は残っているのではという懸念をいだくのである。
4.5 現学習指導要領の目標
小学校の現学習指導要領の第4章は外国語活動について述べてある。その「目標」に関しては、「外国語を通じて、言語や文化について体験的に理解を深め、積極的にコミュニケーションを図ろうとする態度の育成を図り、外国語の音声や基本的な表現に慣れ親しませながら、コミュニケーション能力の素地を養う」とある。キーワードは、「体験的」、「積極的な態度」、「コミュニケーション能力」、「素地」、「音声」などである。キーワードからも、旧学習指導要領と比べて言語教育への傾斜が強まったことが読み取れる。
まず素地であるが、これに関しては色々な意見があるだろう。「素地」の解釈は、簡単な英会話が出来るとする広い意味から外国人を怖がらないなどの狭い意味までありそうであるが、要は英語に関心を持つようにさせることである。
なお、ここまでの文言には、国際理解教育への直接的な言及はないのだが、次の「内容」の箇所に「日本と外国との生活、習慣、行事などの違いを知り、多様なものの見方や考え方があることに気付くこと」、「異なる文化をもつ人々との交流等を体験し、文化等に対する理解を深めること」とあるので、やはり国際理解教育は依然として重要な目標であることが分かる。
旧学習指導要領によって導入された英語活動は、その後の10年間ほど試行錯誤が続いてきた。また、その10年間は、学界の有力者たちから、小学校における英語教育の不要論が強く主張されてきた。また一般にも、小学校の段階では、まず日本語をしっかりと理解してから英語教育へ進むべきであるという意見も根強かった。
それらの声を意識して、現在の学習指導要領の施行となったのである。「コミュニケーション能力の素地を養う」という表現は、現学習指導要領の執筆者たちが世論を意識しながら慎重に選んだものと思われる。
4.6 素地と基礎(中学校の学習指導要領との比較から)
現学習指導要領の「素地を養う」ということだが、どのようなことなのか。中学校の学習指導要領もあわせて読むことで、素地を養うということの意味がつかみやすくなる。中学校の指導要領では、外国語を学ぶ目標は、「外国語を通じて、言語や文化に対する理解を深め、積極的にコミュニケーションを図ろうとする態度の育成を図り、聞くこと、話すこと、読むこと、書くことなどのコミュニケーション能力の基礎を養う」(下線は筆者)とある。小学校では、コミュニケーション能力の「素地」を養い、中学校では、「基礎」を養う、ということである(なお、高等学校の学習指導要領では、この部分は「実践的コミュニケーション能力を養う」となっている)。「素地」と「基礎」の違いは、漠然としているが、要は体力作りと訓練の開始との違いであろうか。
4.7 人間教育としての小学校の英語教育
英語教育は他教科同様に人間教育である。それは単に技術的なことを教えることではない。学校で行うことはそれ自体が人間教育に他ならないと考えられる。実は、全教科全活動が、技術と陶冶の両方に目配りをしている。人として生きていく上で大切なこととはなんであるか、そこを外しての授業はあり得ない。
日本人が言葉を介してのコミュニケーションが下手なのは昔から言われている。自力解決、全員解決(話し合い)を育てて、友だちの意見を聞きながら、なるほど、そういう考え方があったのか、と多面的に物事を見る、そうすることで社会に出たとき、自分と違う人でも違和感なく受け入れる人間になることが狙えるのである。自分の考えを持つ、言う、受け入れる、心の豊かさを育てる、という点では、どの教科も特別活動も同じ目的を持っている。それらと外国語活動を別にしてしまうべきではない。やはり外国語活動は人間教育の一つであり、それと結びつくような活動が望まれる。
4.8 小学校と中学校の連携と接続
小学校と中学校がばらばらに英語教育を行っていてはいけないとよく言われる。互いが有機的に結びつくように、全体の中で、構成されなければいけない。つまり、小学校や中学校の英語教育という単体で捉えるのではなくて、言語教育あるいは英語教育という大きなシステムの中で、どのように機能すべきか考えるべきである。ところが、小中の教員どうしは互いに相手が何をしているか知らない、あるいは誤解がある。まず両者の間で情報の共有化が必要であるようだ。
今までは、英語教育は中学校から始めるのであるから、中学校に入ってくる生徒の英語力は実質ゼロと考えて、カリキュラムが作られていた。しかし、小学校でも英語教育が始まるとなると、事情は異なってくる。小中が連携しなればならないが、どのように連携をしたらいいのか、一方は素地を養い、一方は基礎を養うという棲み分けがされている。この棲み分けについての了解が小中の教員間に必要である。
アンケート調査(山本:2011)では、「小学校から英語活動を体験してきた生徒の方が 積極的な態度を持ち続ける」と報告している。技能的に大きな成果がなかったとしても、少なくとも、積極的な態度を取ることができるようになるならば、それは小学校での英語活動の大きな成果であり、素地が養われたことになる。
近年は連携がよく提唱される。それは今まで各教育現場が自分のことにかかりきりで教育を行ってきて、他の分野での教育に目が向く度合いが少なかったからであろう。今では、小中の連携、中高の連携、高大の連携などが叫ばれている。また、国は、小中高大の一貫した連携を考えるべきであろう。この場合、大学入試の影響の強さを考慮すべきである。教育システムの全体がいかに有名大学に入るかの目的に合うように現在は構成されており、その点を是正・正常化していくことが必要である。それには小学校からの英語教育から次第に是正していくこと、小学校からの英語教育のあり方を考えていくことで、全体の英語教育のあり方への反省へとつながるのである。
5.英語教員
5.1 教員の意識
小学校では英語の好きな教員はどんどん英語活動をおこなって、他の教員たちにもっともっと研修をすべきと主張する。これに対して、苦手な教員は逃げ腰になる。このような現象が小学校の教育の場で見られる。教育活動は教員全体が同じ方向・同じ意識を持つべきであるが、外国語活動では、教員の方向性はなかなか一致しない。外国語活動の担当は、誰もやる人がいないために無理矢理やらされたと感じる教員が大半である。小学校の現場では、特に職員室でよく聞こえてくるのは、突然導入された英語教育に対しての当惑であり、特に中年になってから任された人は非常に困惑している。専科の教員に任せてしまいたいと考える人も多いようだ。それに対して、英語に関心が持てる教員、若い教員の中には積極的に取り組もうとの姿勢も見られる。このように教員の対応がバラバラなままで英語教育に取り組んでいるのは大きな問題であろう。
文科省の指針では、英語の指導を行うのは担任のみというたてまえだが、現実では、担任のみでまかっているクラスは少数であろう。ALTや日本人の講師による手助けが必要である。ALTや講師が来ない週は担任がやることになっているが、これは担任にとって大きな負担になっている。それは、大変な労力を必要とする。準備もさることながら、突然苦手な英語を話すことに躊躇してしまうようだ。たしかに、必要なのは、開き直りと慣れということであるが、実際に教育に携わる人間にとって簡単な話ではない。
また小学校教員は既に膨大な量の日常の仕事をこなしている。いくつかの教科をこなすことでエネルギーを使い果たしている。これ以上に負担が増えることは問題である。過労で精神的に落ち着けないならば、子どもへの影響がある。担任が外国語活動を何とかしたいと考えて躍起になることで、実は精神を病んでしまい、子どもに影響を及ぼしては本末転倒である。
逃げ腰の教員に対して、文科省は次のように言っている。それは「英語が苦手な日本人教員が努力する姿を子どもたちに見せることも大切である。それによって子どもたちが感化されるのである」との言葉である。しかし、それで開き直れる教員の数は少ないようである。また、日本人が担任になって教室に行くと児童のテンションが下がるという現象がある。子ども達は、日本人が教室に行くと、「あれ、Johnじゃないの」(JohnはALTの名前)と言う反応を示すと聞く。小学校の教員は英語に自信がない人がほとんどで、そのことが児童たちにも分かってしまう。「努力する姿をみせる」とまではなかなか開き直れないようだ。
また、外国語活動が活動であるので、そのために軽く見てしまう傾向がある。教科ではないので、その研修は必須ではない。教材研究にかける時間が教科と活動ではどうしても異なってしまう。また、管理職の意識も職員への影響を大きく左右する。英語教育への強い意欲を持つ管理職であれば、その学校の教員の意識も変わると言われている。
5.2 外国語活動は専科制か担任か
外国語活動は専科制か担任かという問題に対して、理想としては担任と考えられる。担任と児童の間は、人間関係(信頼関係)がある程度できているので、お互い良い意味での壁が低くなる。甘えが入ってかえって発話が少なくなることもあるが、担任の心持ち次第で子どもは変わると思われる。
このように英語を教えるのは主として担任とするのは現実問題としては、非常に厳しいものがある。家庭科や図工が専科制なのは準備が大変だからであり、英語はそれに匹敵するほど準備が大変である。どうしても専科制が望ましい。しかし、各学校に一人の専科の教員の配置がまだ予算的にも人員的にも可能ではない現段階では、「できる範囲で行う」ということになろう。
5.3 ALT
一般には、小学校に日本人英語講師か英語教育に関する専門的な知識を持ったALT がいて、コミュニカティブ・アプローチで英語を教えている。ここで身についた英語のやりとりは中学で再び学ぶものではあっても、小学校の段階で比較的早期に疑似体験することで、一般の中学になってからではなかなか身につかないスキルを習得できる可能性がある。その意味では彼らの存在は貴重なものである。
現状では、ALTと担任、ALTが来ない週は担任のみ、地域によってはALTと残りの時数は留学生(英語圏外)という取り組みが多い。ところで、留学生が参加するという点は、実はかなり積極的な意味を持っている。外国語活動とは英語を単に教えるのではなくて、むしろ国際理解教育を行う場として考えると、留学生が文化を紹介する授業は効果的と考えられる。もともとは外国語活動は、海外の文化を知ることが大きな目標であったからである。
一般的な話だが、ALTとの関わりは、担任の教員にとって難しい面があるいう報告がある。2人の打ち合わせの時間がないという苦情はよく聞かれる。ALTは複数のクラス(時には複数の学校)を持っているので、1つ1つクラスの特質を十分に理解することは難しい。本来ならば、担任と十分に打ち合わせしてそのクラスの特質を知ればいいのだが、その時間的な余裕がない。また担任がT1になることが建前だが、ネイティブを前に担任が英語をやるのは抵抗があるとのは当然である。とにかく、担任はALTの扱い方は迷っているだが、次のようなアドバイスがされるようだ。(HP: ALTとのティームティーチング)
質問:ALTの先生との授業中の関わり方がよく分かりません。どのようにしたらよいのでしょうか。
回答:まず、前提として学級担任がT1であり、ALTがT2であるということを認識し、役割分担を確立することが大切です。英語が不得意とお考えの先生は、ついALTの先生にすべてを任せてしまいがちです。しかし,日頃から子どもたちと接し、子どもたちの性格、学習進度や内容,生活環境などをよく理解している学級担任が授業の中心となり、主体性を発揮して授業をすることが大切です。その最大の理由は子どもたちにとってそのことが大きな安心感や開放感につながるからです。
なお、日本語を話せるALTが多いと言われている。彼らも多くは日本文化に関心があるからこそ異国の地である日本で頑張っているのである。また、ALTの教え方に問題があることがある。それはALTは英語教授法の専門家ではないことが大半であるからである。しかし、ALTが英語教授法を習得していなくても、ALTが熱意を見せるならば必死についていくことが多い。「子どもは大人の空気に強く反応する。教えるテクニックが無くても一生懸命な人にはついて行く。そうでなくてもそれなりに授業が成立する」とよく言われる。そのような積極的なALTもいれば、必ずしもそうでないALTもいて、人によって様々である。
小学校で英語を教える教員の資格をどうするか、検討されるべきである。中等教育では、文科省は、英語教員には英検準1級、TOEFL iBT 80点程度等以上を求めている。現在では、小学校で専科教員や担任にしても、どの程度の英語力を求めるか目安として明示する必要がある。
まとめると、担任には英語の知識がない人がほとんどで、また英語が嫌いな人もいて、教えることには大いに問題がある。しかし、一般に小学校教員の授業力はすばらしく、教科を通じた授業力を英語の指導に生かすことは可能であるので、そのあたりを工夫すべきである。小学校の担任は児童に対して絶大な影響力を持っているので、そこをうまく活用できるとよい。また、担任が1人で教えるのではなく、ALTや日本人英語講師などとのティームティーチングでイニシアチブを取って教えるのが望ましい。それが難しい場合では、CDや動画などの補助教材を上手に活用すべきである。なお、英語を専門に教えることができる日本人か外国人の講師が1つの学校に常に滞在していることが望ましい。
6.テキスト
6.1 テキストの有用性
授業では、テキストはあった方がよい。小学校の英語教育では当初は手探りの状態で、テキストを使ったり使わなかったりであった。しかし、多くの教員は何をしたらいいのか途方にくれてしまうことがあった。その意味では、テキストの存在はどのように授業を進めるかにとって大いに参考になる。もちろん、テキストはあくまで参考資料として、教員自身が生きた教科書として児童と英語でコミュニケーションしようとすべきである。その場合、テキストの単語だけを中心に教えてしまうことがあるが、文を介在させてコミュニケーションするという原則を守るべきである。いずれにしても、テキストは副次的であり、人間が主体であることを自覚しておくべきである。
6.2 2つのテキスト
過去のテキストとして、『英語ノート』が使われていた。しかし、それが事業仕分けの中で突然、廃止されたのである。『Hi, friends!』はそのままの復活ではないが、基本的には同様な形のテキストである。これは森ゆうこ文科省副大臣の話からもうかがえる(7)。
この新しい『Hi, friends!』は『英語ノート』とおなじく2冊に分かれている。それぞれが5年生と6年生に割り当てられる。前回の『英語ノート』とほとんど内容は変わっていないとの声もある。ただし、量的にはいくつかの変更が見られるようだ。両者を比較すると、『Hi, friends!』は分量的に24ページも減り(80ページから56ページへと)かなり薄くなった。様々な活動を見ても、Let’s Listenが5年生の部分で2か所、6年生の部分で9か所ほど減っている。同様に、Let’s Singでは2か所と2か所、Let’s Playでは4か所と2か所それぞれ減っている。また、Activityも、19か所と14か所と減っている。一方、Let’s Chantでは、5年生の部分で4か所、6年生の部分では1か所増えている
総ページ数が減って、子どもたちが取り組むコミュニケーション活動の数が減った。ただし、総時間数は35コマのままであるから、それは、少ない活動に十分に時間をかけて取り組むことが求められていると考えられる。つまり一つ一つは充実してゆっくり行うことが必要になったようだ。特に、Activityでは、以前の『英語ノート』以上にじっくりと取り組んだり、各自で工夫したコミュニケーション活動等を取り入れたりすることが求められている。これは、『英語ノート』が配布された当時は、「量が多すぎる」「時間内に終わらない」などの意見が多く寄せられたことに対しての反省を反映したとも考えられる。
なお、『Hi, friends!』の目次を以下に示す。
Book1(5年生用のテキスト)
Lesson1 Hello! 世界のいろいろな言葉であいさつしよう(言語・挨拶)
Lesson2 I’m happy. ジェスチャーをつけてあいさつしよう(ジェスチャー、感情・様子)
Lesson3 How many? いろいろなものを数えよう(数,身の回りの物)
Lesson4 I like apples. 好きなものを伝えよう(果物,動物,食べ物、スポーツ)
Lesson5 What do you like? 友だちにインタビューしよう(色、形)
Lesson6 What do you want? アルファベットをさがそう(アルファベット大文字、身の回りの物)
Lesson7 What’s this? クイズ大会をしよう(身の回りの物)
Lesson8 I study Japanese.「夢の時間割」を作ろう(教科,曜日)
Lesson9 What would you like? ランチメニューを作ろう(料理)
Book2(6年生用のテキスト)
Lesson1 Do you have“a”? アルファベットクイズを作ろう(言語・文字)
Lesson2 When is your birthday? 友だちの誕生日を調べよう(行事,月・日付)
Lesson3 I can swim.できることを紹介しよう(スポーツ、動作)
Lesson4 Turn right.道案内をしよう(建物、道案内)
Lesson5 Let’s go to Italy.友だちを旅行にさそおう(世界の国々、世界の生活)
Lesson6 What time do you get up? 一日の生活を紹介しよう(世界の国々、世界の生活)
Lesson7 We are good friends. オリジナルの物語を作ろう(世界の童話、日本の童話)
Lesson8 What do you want to be?「夢宣言」をしよう(職業、将来の夢)
『Hi, friends!』について、これに対していくつかの批判の声がある。英語は素人の担任の多くは、単にテキストを与えられただけでは、どのような授業を行えばいいのか迷うであろう。どのような方向性で行けばいいのか。その方向性を示されるべきである。テキストの持つ基本精神を示しながら、教員研修を同時に行うことでその精神を理解してもらうであろう。
なお、このテキストは「国際理解」という視点からすると物足りないようだ。『Hi, friends!』は、最初の頁だけに世界のあいさつのみがあるだけで、いろいろな国の文化紹介という観点は他にはない。それを補うためには、他の教科の存在があげられる。実は、国際理解教育とは大きな枠組みで考えるべきであり、一つの科目内だけで行うのではなくて、小学校の全ての科目で行うのである、つまり、国語、社会、理科、その他の特別活動の時間でも国際理解教育を積極的に取り入れるべきなのである。
7 私立小学校
7.1 私立小学校の英語授業について
日本にはたくさんの私立の小学校がある。それらは多くの場合、公立学校よりも英語教育の取り入れに積極的である。ここではある私立の小学校を紹介したい。関東圏にある私立小学校での英語授業数は、1〜2年生は週2コマ、3年生からは週3コマ行っている。また、4年生からは30人学級を半分に分けた2つの15人クラスに対してそれぞれにネイティブ教員1人と日本人教員1人の2人体制で教えている。非常に意欲に富んだ私立小学校の取り組みである。この小学校では、「グローバル人材育成」を掲げていて、創設以来英語教育を重視しており、カリキュラムは系列大学の英語教育学の専門家の指導案をベースにしている。
この私立学校に実際に勤務する教員の中には、過度に音声教育が強調されていると考える人もいるようだ。授業では、児童にプレゼンテーションをさせる。子ども達は、意味はよくわからない英語の雛形文章をワークシートに写し取り、なんとかスクリプトを作る。自分の言いたい言葉は、そのつど教員に聞いて意味と綴りを教えてもらい、それをスクリプトに書き加える。ただ、プレゼンテーションのために英語の発音を教員に教えてもらった子ども達は、それを音として耳で聞き取るだけになる。それがどういう意味を持つ言葉の連なりなのかを理解しないままオウム返ししているという面がある。さらに、文字は目の前にあるが、文字と音が一致しないので実際は読めていない。自分が発している英語のよりどころになるものがない。これは、児童たちにとっても目と耳の両方からの理解という点でないことが問題になるのでは、と考えている教員もいるようだ。
たしかに、この学校では、公立小学校とは比較にならないほど英語授業に力を入れている。そして、ヒアリングやスピーキングばかりに重点をおいている。しかし、本当に英語を身につけさせたいのであれば、文字も教えた方が身につくのではないかとの教員の声がある。
この学校の児童たちであるが、生徒達は多くが英語塾に通っていたり、そもそも英語に対する意識が高かったりするため、公立小学校の生徒と比べると英語能力や意識がかなり高い。ただ、授業で教員が話す英語を全く理解できていないために意欲を失っている児童や授業になかなかついて行けない児童も少なからずいる。高いレベルの英語教育はそれについて行けない落ちこぼれを必然的に生み出す構造がある点に注意すべきである。
また、英語能力が高い生徒は、そもそも塾などで英語を勉強しているため、学校の英語授業だけでどこまで児童の英語能力が伸びたのかは不明であるので、一概に私立小学校での英語教育が有効であるとは言えない部分がある。
7.2 私立中学校での英語の試験導入
朝日新聞デジタル(2015年1月1日)によれば、英語を入試に取り入れる私立中学が増えているそうである。2015年入試で英語を導入するのは、帰国生限定を除いても首都圏だけで少なくとも32校にのぼるという。小学校で英語学習が本格化し、今後さらに進むことを見越して導入が加速している。
例えば、東京都市大付属中(東京都世田谷区)は新たに英語、算数、作文(日本語)の3科目による「グローバル入試」を始める。問題のレベルは英検準2級から2級程度で、筆記のみとのことである。これらの入試は、英語に熱心な私立の小学校の存在を前提としているのであり、要求するレベルが英検の準2~2級の程度ということはかなり驚きである。この制度は、イングリッシュ・デバイドにつながるのではと懸念される。
8.ヨーロッパの言語教育の視点から
8.1 ヨーロッパの統合
ヨーロッパの言語教育は近年注目を浴びている。長らく戦争の絶えなかったヨーロッパでは、人々が戦争の防止のために欧州の統一を目指し、戦後間もない時期にECSC(欧州石炭鉄鋼共同体)を成立させて、それからEEC(欧州経済共同体)、EC(欧州共同体)、そして現在のEU(欧州連合)へと発展している。EUの加盟国は27であり、ヨーロッパ地域の政治・経済・軍事的統合を目指している。
言語教育政策の上からは、欧州評議会(Council of Europe)に注目したい。欧州評議会はEUとは別組織であり、現在の加盟国は47を数えている。人権を擁護して、民主主義の推進と、ヨーロッパの文化的アイデンティティを保持しながら、多様性を促進しながらも欧州の統合をはかるという遠大な目標のために活動をしている。
欧州評議会は、ヨーロッパの言語教育に深い関心を持ち、『欧州言語共通参照枠』(Common European Framework of Reference for Languages, CEFR)を開発している。ヨーロッパの教育機関は、CEFR を文字通り「参照」することで、言語学習の目標の明確化を進め、シラバス、カリキュラム、試験、教科書などの開発を行っている。CEFRは、ヨーロッパで共通の、外国語学習の到達度を記述するのに使用するガイドラインである。そこでは、学習者の能力を、大きく3 段階(A:基礎段階の言語使用者、B:自立した言語使用者、C:熟達した言語使用者)に分け、それらをさらに2段階に区別して、(A1、A2、B1、B2、C1、C2)の6つのレベルとしている。各レベルの能力記述文は「~ができる」という書き方が用いられ、「~ができるならばレベルはこうなる」という基準を用いることで、学習者のレベルが明らかになるようになっている。
8.2 複言語主義と多言語主義
複言語主義(plurilingualism)も欧州評議会の提唱する理念の一つである。これは、多言語主義(multilingualism)とは異なるものであるとされている(多言語主義に関してはさまざまな定義があるが、ここでは欧州評議会の定義に従う)。「多言語主義」は異なった言語のモノリンガル(=単言語話者)が共生共存している状況を言及しているが、「複言語主義」は状況に応じて、必要な言語ができる多言語話者たちが共生共存している状態を示している。そこでは、一人の人間が母語を含む複数の言語を有機的に活用しているのである。
複言語主義では、複数言語の話者たちは、目標言語が「母語話者並み」に上手にならなくても構わない、必要なところ(領域)で必要なことのできる言語能力があれば良く、目標とする言語レベルは学習者個人によって異なるという風に割り切っている点も特徴となる。
複言語主義のもう一つの理念とは、政策立案者や教育に携わる者や国が前もって言語の目標を定めて、それに向かって強制するというよりも、むしろ、個人が言語学習に主体的に関わり、自分で選び取り決定していくという「自律的学習」autonomous learningができるようなサポート体制を整えることである。つまり、自律的学習者を育てることである。さらには、生涯学習としての言語学習という考え方も複言語主義の理念の一つである。
8.3 欧州言語ポートフォリオ
統合されたヨーロッパ内を自由に移動する人々を念頭において、欧州言語ポートフォリオ(ELP)が開発された。具体的には、言語パスポート(language passport)、言語学習記録(language bibliography)、資料集(dossier)である。自分自身の外国語の学習の履歴を残すことで、転学・就職の際に、自己の言語能力を示す手がかりになるし、なによりも、自分自身の語学学習の履歴を見ることで、自らを客観的に見ることができ、今後の自分の言語学習の方向性を見いだすことができる。
杉谷(2011)では、ドイツでの小学生用のポートフォリオの事例を紹介している。小学生に言語ポートフォリオを使わせるその先見性に目を見はらされる。その主要目標は、①外国語学習の方法を自覚し、自分に適した学習方法を見つけ磨くこと、②自己の言語運用力を適切に評価する力をつけることにある。また、小学校段階での言語ポートフォリオには、学習事項や言語能力を記録し、それをもとに、中等教育段階への接続をスムーズに行うことが目指されている。
そ
の言語ポートフォリオでは「学習記録」が重要な役割を果たしており、そこには、自分自身の「ふれあいの言語」や「言語への気づき」の経験を記入することになっている。さらに、外国語学習一般に応用可能な学習方法や目標言語と母語との負の干渉などを考えさせる項目までが導入されている。日本でも取り入れたいものだが、そのままの形での利用は無理であろう。いずれにせよ、是非とも日本版の小学校生用の言語ポートフォリオの開発が待たれるのである。
8.4 日本は何を学ぶか
ヨーロッパ諸国の言語教育政策から、日本が学ぶことはいくつかある。その一つは、日本が英語偏重へと傾斜している点への反省である。EUの母語+2言語という方針は、英語以外の言語への関心を示している。ドイツのザールランドでは第1外国語として、フランス語が選ばれていることが示すように、近隣の諸国の言語への関心が強い。ヨーロッパでは隣国の言語を学ぼうという強い意志が見られる。日本では、伝統的に、ドイツ語・フランス語という西洋諸国の言語への関心を示してきた。しかし、中国語や韓国語という近隣諸国の言語を学校教育の場で教えることは最近までは少なかった。この点は反省すべきであろう。
複言語主義が提唱するように、様々な言語を必要に応じて少しずつ勉強するという態度には、見習うべき点もある。日本では、複数の言語を広く浅く学ぶよりも、一つの言語へと集中することが望ましいとされ、その言語は、英語となる。英語さえ分かれば、世界を何でも知ることができると誤解する人も多い。その誤解を解くことも小学校外国語活動の役目の一つである。
9.まとめ(望ましい小学校の英語教育)
9.1 現状の認識
これまで様々な視点から小学校の英語教育を述べてきたが、それらを以下のようにまとめてみたい。現在、小学校での英語教育はかなり時間が経過して、それを不要か否かと言ってところで、小学校から英語をなくすことはもはや難しいのではないかという認識もあるが、やはり根源的に問うという姿勢はいつまでもほしい。根源的に問うてなお反対論であるのは一つの見識である。ただ、保護者や子どもたちには英語が必要との認識が浸透しているので、むやみに反対を唱えるのは非生産的である。それゆえに、単なる反対論ではなくて、なにか建設的な意見へとつながる反対論であることが必要である。
9.2 素地を養うことを中心に
長い間日本では、英語教育は中学校から始まるとされていて、12歳の春になってから英語に触れはじめたのであった。その時期を繰り上げて10歳(小学5年)から、外国語を学ぶことの意味は何であろうか。その意味はいろいろと考えられよう。グローバリゼーションへの対応という回答では説得力が弱いように感じる。その場合は素地を伸ばすという点に注目したい。
児童の持つさまざまな可能性をできるだけ伸ばすという点に教育の意義があることをまず確認したい。それ以外の目的から、例えば、国際競争力の向上というような目的で、小学校に英語教育を導入することは好ましくない。英語教育はあくまでも児童の資質を伸ばすことを主目的として導入されるべきである。
児童の資質を伸ばすとは、あくまでも将来の可能性を広げることであって、決して即戦的・実務的な力をたたき込むことではない。基本的な知識や思考力の育成につながる基礎力を身に付けさせることが大切である。普遍的な知識や思考力が培われていったら、それは後になって、高度の英語力、国語、その他の外国語学習にもつながっていく。実務的な英語力でさえも、回り道のように見えても、土台から固めていく方がより確実に習得できる。
これは、野球にたとえて言えば、手っ取り早く得点に結びつけようとホームランを打つ練習だけではなくて、走ったり投げたりして基礎的な体力をつけることが長期的には役に立つ。基礎体力をつけることが、ホームランを打つ力をつける近道なのである。しかも、この力は、野球以外のスポーツにも転用できる力である。学習要領に述べてある「素地」とはそのように理解すべきである。
小学校で養うのは「素地」であるとすれば、どの部分が小学校で教えるべき素地になるだろうか。週1回の授業で養うべき素地はどのようなものであるのか。現状では、曖昧なままである。それに関する実証的な研究報告が待たれている.
9.3 言葉への気づき
「言葉への気づき」を促すことは、児童の能力の可能性を広げるという意味で大切である。大津(2006:25)は次のように述べている。
(言語の)運用能力の基礎を構築するためには、普段は無意識的に使われることばを意識化することが重要です。ことばに対する意識とか、ことばに対する感性を育成することと言い換えてもかまいません。
普通は無意識に使っている言葉遣いを、何故このような使い方をするのかを意識することで、言葉への感性が鋭くなり、理解が深まるのである。言葉そのものへの関心や知識を、学術用語では、「メタ言語的な知識」と呼んでいる。このメタ言語的知識は、普遍的な知識へと発展し、やがては算数や理科などの他の科目の応用にも役立つ可能性が高い。
小学生が英語に触れることの意義は、日本語と違う言語に触れることで、子どもたちが言語そのものへの関心を高めることでもある。日本語しか知らないことは日本語の世界に閉じこめられてしまうことを意味する。ゲーテは、「外国語を知らないものは、自分の国語についても何も知らない」と述べた。これは、「自分の言葉を知るために外国語を勉強する」とも解釈できるし、「日本語以外の世界を知らない人は、実は日本語さえも深い意味では知らないのである」という意味だとも解釈できよう。その母語だけの世界から飛び出ることは自分の世界を広くする効果がある。その点に外国語を勉強する意味がある。
9.4 望ましい国際理解教育
児童の持つさまざまな資質を伸ばすために、国際理解教育の重要さを指摘したい。さまざまな言語や文化に触れることで、異文化や異言語の持ち主に対して寛容な精神の持ち主になる。小学校の段階で異文化に接することは、大人になってからは経験できないような深いレベルでの異文化体験となる。それは、後年に国際人になるための原体験となる。その意味で、英語の授業では、国際理解教育の要素を忘れるべきではない。
この国際理解教育の中に、含めてほしいこととして、次のことをあげたい。①世界には多様な言語があるという事実と、さらには英語でも様々な種類があるという事実である。そして各言語の間には価値の差はないことを教えたい。②しかし、現実社会では、政治的・軍事的に強大な国の言語が優越であり、その国の言語を話すことが格好良い、あるいは美しくて論理的であるように見えてしまう。そのような国際社会のからくりまで児童に教えていいと思う。そして、③異文化・異言語の人とのふれあいの体験である。さまざまな文化・民族の人々を教室に招いて、それぞれが魅力ある人であることを児童たちに実体験するチャンスを与えるべきと思う。授業では、イギリスやアメリカの文化や言語を紹介することが多くなるとしても、真の国際理解教育とは、英米以外の言語・文化の人々の存在を忘れないことである。
9.5 小学校で英語を教える意義
小学校の英語教育は英語の実用的な能力を植え付けるのではなくて、将来どのような方向にでも開花できるように、あくまでも土台をしっかりと据え付けることである。小学校で英語を教えることは、高校や大学で英語を教えることとは意味が異なる。小学校は義務教育であり、国民全体が受けるものである。一方、高校や大学は、最近は進学率が上がってきているとは言え、進学は義務ではない。そこで学ぶ英語はあくまでも国民の一部分が学ぶものである。
小学校の児童たちが将来どのように英語に接するかは様々である。将来積極的に英語に関与するかもしれない児童もいれば、将来英語と無縁の生活を送ることになるかもしれない児童たちも多数存在する。また、英語以外の言語を将来勉強するかもしれない児童も存在するかもしれない。中国経済の発展に関心を持ち中国語を勉強しようとするかもしれない、あるいはイスラム文化に魅せられて、アラビア語の勉強をするかもしれない。いずれにせよ、小学生全員を英語の達人にしようとする考えは行き過ぎになる。
小学校での英語の勉強は将来さまざまな方向に進むだろう児童たちのための学習の土台になるようにすべきである。言語に関しても普遍的な知識を身につけることで、後年、いろいろな言語の学習に役立てば、小学校での英語教育は十分な使命を果たしたと言えよう。
注
(1)この点に関しては、実は、文部科学省の有識者会議は2014年の9月26日に、小学校5年生から英語を正式な教科として教えるべきと提唱している。いずれは、3年生から、1年生からと英語の教科化は進行すると思われる。それにつれて、英語の授業でも試験が始まるだろうと思われる。
(2)目的と目標は異なるものであり、目的という高次の段階にある目的に進むための具体的な道標を目標と考える。小学校の英語教育には、英語の習得という高次の目的のために、どの程度の力をつけるのかという目標がある。
(3)寺島(2007)は、産業界からの要請によって、「小学校への英語教育の導入」が始まったことを各種資料を紹介しながら説明している。
(4)BICSはBasic Interpersonal Communication Skill、CALPはCognitive Academic Language Proficiencyの略である。
(5)モジュール授業とは、15分などの短い時間単位にして完結させた授業を相互に組み合わせて行っていく授業である。
(6)英語をカタカナで近似的な発音に表記することが可能と考えて、小学生などの段階ではこの方が有効と考える説である。
(7)平成21年11月に実施されました事業仕分けにおきまして、廃止との評価を受けたところでございます。それで、その廃止のときの主な意見は、小学校からの英語教育がうまくいくのかということ自体に疑問があるという御指摘、それからモデル事業の見直しの中で、「英語ノート」についても、ウェブ掲載で十分ではないかという御指摘がございました。こういう状況を勘案をいたしまして、「英語ノート」は平成23年度使用分については、新学習指導要領の円滑な実施のために、引き続き配布はいたしますけれども、平成24年度以降については事業仕分けの結果を踏まえまして廃止としたところでございます。
一方で、先ほども事業仕分けで指摘をされました、そもそも小学校における英語の授業ということについて疑問が呈せられていたと。しかし、こちらの方でまた専門家の方で御議論いただいた結果として、本年度から小学校の外国語活動は必修化されたわけでございまして、その円滑な実施が求められております。また、教育の機会均等、中学校との円滑な接続、外国語活動の質的水準の担保等の観点から、国として質の高い共通教材を提供することが必要である。これは現場からの大変強い御要請もございます。それで、従来の「英語ノート」については、学校現場から課題等が指摘されていることを踏まえまして、事業仕分けでの御指摘も踏まえつつ、新たな外国語活動教材を作成したものでございます。
参考文献とURL
「ALTとのティームティーチング」
http://db.ice.or.jp/nc/?action=common_download_main&upload_id=1191(2015/01/06閲覧)
大津由紀雄 2006 「原理なき英語教育からの脱却を目指して」、大津由紀雄(編)『日本の英語教育に必要なこと』 東京:慶應義塾大学出版会
河原俊昭(編)2008 『小学生に英語を教えるとは?―アジアと日本の教育現場から』 東京:めこん
国際ビジネスコミュニケーション協会 2012. 『TOEIC Newsletter』
杉谷眞佐子 2011 「ドイツ、ノルトライン・ヴェストファーレン州の事例から」、、河原俊昭・中村秩翔子(編)『小学校の英語教育』 東京:明石書店
津田幸男 2011 『英語を社内公用語にしてはいけない3つの理由』阪急コミュニケーションズ
寺島隆吉 2007 『英語教育原論』 東京:明石書店
中田小百合 2011 「小学生の英語活動に文字指導は可能か」、河原俊昭・中村秩翔子(編)『小学校の英語教育』 東京:明石書店
成田一 2011 「英語の社内公用語化は浅はかな思い込み!」
http://eisogakkai.web.fc2.com/thenewenglishclassroom2011-3.pdf (2015/01/05閲覧)
『日本経済新聞』2014.11.20「小3から英語授業、高校では討論レベル 指導要領諮問」
http://www.nikkei.com/article/DGXLASDG20H2K_Q4A121C1CR0000/(2015/01/05閲覧)
林桂子 2010 「オランダ」、大谷泰照他編『EUの言語教育政策』東京:くろしお出版
船橋洋一 2010 『あえて英語公用語論』 文春新書
森住衛 2012 「日本の異言語教育政策の現状と課題」日本言語政策学会中部地区研究会発表資料(2012年10月28日)
文科省 「森ゆうこ文部科学副大臣記者会見テキスト版」
http://www.mext.go.jp/b_menu/daijin/detail/1315020.htm(2015/01/05閲覧)
文科省 「実践的な職業教育を行う新たな高等教育機関の制度化に関する有識者会議」 http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chousa/koutou/061/gijiroku/1352719.htm(2015/01/05閲覧)
山田雄一郎 2006 「座談会:英語教育は国語教育と連携できるか」『英語教育』vol.55.no.2 pp.10-21 東京:大修館書店
山本元子 2011 「小学校英語活動で学んだことを中学校英語で生かすための工夫」、河原俊昭・中村秩翔子(編)『小学校の英語教育』 東京:明石書店
付録Ⅰ(現行の小学校の学習指導要領)
第4章 外国語活動
第1 目標
外国語を通じて,言語や文化について体験的に理解を深め,積極的にコミュニケーションを図ろうとする態度の育成を図り,外国語の音声や基本的な表現に慣れ親しませながら,コミュニケーション能力の素地を養う。
第2 内容
〔第5学年及び第6学年〕
外国語を用いて積極的にコミュニケーションを図ることができるよう,次の事項について指導する。
(1) 外国語を用いてコミュニケーションを図る楽しさを体験すること。
(2) 積極的に外国語を聞いたり,話したりすること。
(3) 言語を用いてコミュニケーションを図ることの大切さを知ること。
日本と外国の言語や文化について,体験的に理解を深めることができるよう,次の事項について指導する。
(1) 外国語の音声やリズムなどに慣れ親しむとともに,日本語との違いを知り,言葉の面白さや豊かさに気付くこと。
(2) 日本と外国との生活,習慣,行事などの違いを知り,多様なものの見方や考え方があることに気付くこと。
(3) 異なる文化をもつ人々との交流等を体験し,文化等に対する理解を深めること。
第3 指導計画の作成と内容の取扱い
指導計画の作成に当たっては,次の事項に配慮するものとする。
(1) 外国語活動においては,英語を取り扱うことを原則とすること。
(2) 各学校においては,児童や地域の実態に応じて,学年ごとの目標を適切に定め,2学年間を通して外国語活動の目標の実現を図るようにすること。
(3) 第2の内容のうち,主として言語や文化に関する2の内容の指導については,主としてコミュニケーションに関する1の内容との関連を図るようにすること。その際,言語や文化については体験的な理解を図ることとし,指導内容が必要以上に細部にわたったり,形式的になったりしないようにすること。
(4) 指導内容や活動については,児童の興味・関心にあったものとし,国語科,音楽科,図画工作科などの他教科等で児童が学習したことを活用するなどの工夫により,指導の効果を高めるようにすること。
(5) 指導計画の作成や授業の実施については,学級担任の教師又は外国語活動を担当する教師が行うこととし,授業の実施に当たっては,ネイティブ・スピーカーの活用に努めるとともに,地域の実態に応じて,外国語に堪能な地域の人々の協力を得るなど,指導体制を充実すること。
(6) 音声を取り扱う場合には,CD,DVDなどの視聴覚教材を積極的に活用すること。その際,使用する視聴覚教材は,児童,学校及び地域の実態を考慮して適切なものとすること。
(7) 第1章総則の第1の2及び第3章道徳の第1に示す道徳教育の目標に基づき,道徳の時間などとの関連を考慮しながら,第3章道徳の第2に示す内容について,外国語活動の特質に応じて適切な指導をすること。
第2の内容の取扱いについては,次の事項に配慮するものとする。
(1) 2学年間を通じ指導に当たっては,次のような点に配慮するものとする。
ア 外国語でのコミュニケーションを体験させる際には,児童の発達の段階を考慮した表現を用い,児童にとって身近なコミュニケーションの場面を設定すること。
イ 外国語でのコミュニケーションを体験させる際には,音声面を中心とし,アルファベットなどの文字や単語の取扱いについては,児童の学習負担に配慮しつつ,音声によるコミュニケーションを補助するものとして用いること。
ウ 言葉によらないコミュニケーションの手段もコミュニケーションを支えるものであることを踏まえ,ジェスチャーなどを取り上げ,その役割を理解させるようにすること。
エ 外国語活動を通して,外国語や外国の文化のみならず,国語や我が国の文化についても併せて理解を深めることができるようにすること。
オ 外国語でのコミュニケーションを体験させるに当たり,主として次に示すようなコミュニケーションの場面やコミュニケーションの働きを取り上げるようにすること。
〔コミュニケーションの場面の例〕
(ア) 特有の表現がよく使われる場面
・ あいさつ
・ 自己紹介
・ 買物
・ 食事
・ 道案内
など
(イ) 児童の身近な暮らしにかかわる場面
・ 家庭での生活
・ 学校での学習や活動
・ 地域の行事
・ 子どもの遊び
など
〔コミュニケーションの働きの例〕
(ア) 相手との関係を円滑にする
(イ) 気持ちを伝える
(ウ) 事実を伝える
(エ) 考えや意図を伝える
(オ) 相手の行動を促す
(2) 児童の学習段階を考慮して各学年の指導に当たっては,次のような点に配慮するものとする。
ア 第5学年における活動
外国語を初めて学習することに配慮し,児童に身近で基本的な表現を使いながら,外国語に慣れ親しむ活動や児童の日常生活や学校生活にかかわる活動を中心に,友達とのかかわりを大切にした体験的なコミュニケーション活動を行うようにすること。
イ 第6学年における活動
第5学年の学習を基礎として,友達とのかかわりを大切にしながら,児童の日常生活や学校生活に加え,国際理解にかかわる交流等を含んだ体験的なコミュニケーション活動を行うようにすること。
付録Ⅱ 現行の中学校の外国語の学習指導要領(一部)
第2章 各教科 第9節 外国語
第1 目標
外国語を通じて,言語や文化に対する理解を深め,積極的にコミュニケーションを図ろうとする態度の育成を図り,聞くこと,話すこと,読むこと,書くことなどのコミュニケーション能力の基礎を養う。
第2 各言語の目標及び内容等
英語
1目標
(1) 初歩的な英語を聞いて話し手の意向などを理解できるようにする。
(2) 初歩的な英語を用いて自分の考えなどを話すことができるようにする。
(3) 英語を読むことに慣れ親しみ,初歩的な英語を読んで書き手の意向などを理解できるようにする。
(4) 英語で書くことに慣れ親しみ,初歩的な英語を用いて自分の考えなどを書くことができるようにする。
2 内容
(1) 言語活動
英語を理解し,英語で表現できる実践的な運用能力を養うため,次の言語活動を3学年間を通して行わせる。
ア 聞くこと
主として次の事項について指導する。
(ア) 強勢,イントネーション,区切りなど基本的な英語の音声の特徴をとらえ,正しく聞き取ること。
(イ) 自然な口調で話されたり読まれたりする英語を聞いて,情報を正確に聞き取ること。
(ウ) 質問や依頼などを聞いて適切に応じること。
(エ) 話し手に聞き返すなどして内容を確認しながら理解すること。
(オ) まとまりのある英語を聞いて,概要や要点を適切に聞き取ること。
イ 話すこと
主として次の事項について指導する。
(ア) 強勢,イントネーション,区切りなど基本的な英語の音声の特徴をとらえ,正しく発音すること。
(イ) 自分の考えや気持ち,事実などを聞き手に正しく伝えること。
(ウ) 聞いたり読んだりしたことなどについて,問答したり意見を述べ合ったりなどすること。
(エ) つなぎ言葉を用いるなどのいろいろな工夫をして話を続けること。
(オ) 与えられたテーマについて簡単なスピーチをすること。
ウ 読むこと
主として次の事項について指導する。
(ア) 文字や符号を識別し,正しく読むこと。
(イ) 書かれた内容を考えながら黙読したり,その内容が表現されるように音読すること。
(ウ) 物語のあらすじや説明文の大切な部分などを正確に読み取ること。
(エ) 伝言や手紙などの文章から書き手の意向を理解し,適切に応じること。
(オ) 話の内容や書き手の意見などに対して感想を述べたり賛否やその理由を示したりなどすることができるよう,書かれた内容や考え方などをとらえること。
エ 書くこと
主として次の事項について指導する。
(ア) 文字や符号を識別し,語と語の区切りなどに注意して正しく書くこと。
(イ) 語と語のつながりなどに注意して正しく文を書くこと。
(ウ) 聞いたり読んだりしたことについてメモをとったり,感想,賛否やその理由を書いたりなどすること。
(エ) 身近な場面における出来事や体験したことなどについて,自分の考えや気持ちなどを書くこと。
(オ) 自分の考えや気持ちなどが読み手に正しく伝わるように,文と文のつながりなどに注意して文章を書くこと。