16世紀のフィリピンにおける文字の普及に関する諸問題                                               1999-05-04

On the Diffusion of the Writing System in the Philippines during the 16th Century

はじめに
1565年に、レガスピがセブ島に到着してから、スペイン人によるフィリピンの植民地化が始まった。当時マニラ周辺のタガログ族を中心にして、バイバイン(baybayin)と呼ばれる文字が使われていた。この文字の普及に関して、イエズス会士チリーノは『フィリピン記事』の中で、また植民地高官モルガは『フィリピン諸島誌』の中で、当時のフィリピンの人々のほとんどが読み書きの能力があった、と報告している。現在の多くのフィリピンの歴史書は、この報告に基づいて、当時のフィリピンでは、読み書き能力は広範囲に普及していたと述べている。フィリピン独立の英雄ホセ・リサールは、植民地化以前のフィリピンには高い文明が存在していたことは、モルガの『諸島誌』が証明していると主張して、植民地化以前の理想郷を復活することを、フィリピン独立運動の目的とした。しかし16世紀のフィリピンが、高い識字率を誇っていたとは、常識的に考えづらいとして、文字の普及は、きわめて限られた人々の間だけであったろうとする説がある。それは、Scott(1984)やCorpuz(1988)たちが唱える説である。それに対して、Reid(1988)は東南アジアの商業史研究の中で、普及説を唱えている。現在では、どちらの説が有力であるとも言えない状況である。本稿では、これらの説を比較検討して、当時のフィリピンにおける読み書きの普及の程度について論述することを目的とする。

1. フィリピンの諸言語
スペイン人到来以前のフィリピンの状況に関しては、歴史的文献がほとんど存在せず、推測するしかないが、当時人々は、原始的な漁労・農耕生活を営み、バランガイと呼ばれる小共同体を構成して、海や川に沿って生活していたと思われる。15世紀頃から、イスラムの影響がインドネシア諸島より強まり、スペイン人が到来した時点では、フィリピン南部のミンダナオ島やスル諸島はすでにイスラム文化の影響下にあった。
フィリピンの諸言語はオーストロネシア語族に属している。フィリピンでは、当時数百の言語が話されていて、この状態は今日でも続いている。フィリピンの諸言語は音韻的には3つの母音(a, e/i, o/u)と14の子音(b, d, g, h, k, l, m, n, ng, p, s, t, w, y)からなる言語であり、特徴としては、語根語が2つの音節からできていること、同一の音の反復によって語が形成されること、接中辞が使用されること、などが挙げられる。
語彙に関しては、インドネシア諸島からの交易者や移住者を通して、インドから影響を受け、タガログ語には、サンスクリット語から340語以上の借用があるという(Zaide 1994: 54)。また中国の影響も見られ、1500語以上が中国語起源であるという(Zaide 1994:59)。

2. 当時の文字体系
2.1 文字一般
Postma (Casal et al. 1998: 224)によれば、フィリピンには2種の文字体系が別々の時期に渡来したが、最初の文字体系は、900年以前のある時期に、ジャワ島から導入されたとしている。それは、vowel-killer(フィリピンの諸言語では子音は常に後に続く母音を伴って発音されるが、母音を伴わずに子音のみの発音を示す記号)を持っていたのが特徴であったが、10世紀以降に消滅した。次に渡来したのは、スラウエシ島あるいはスマトラ島から来たものであったが、これにはvowel-killerがなかったので、音声を前者ほど正確には表示できなかった。この文字体系が、バイバインであり、スペイン人による植民化が開始された時に一番普及していた文字であった。

2.2 バイバイン
バイバインが当時の社会の中で果たしていた機能に関しては、個人間のコミュニケーションや求愛の歌を作るという私的な目的が主であり、部族や共同体の歴史や伝説を記す等の公的な目的には使われていなかった、と思われる。Santos(1996)の指摘している例では、サン・アントニオは1735年に「現在に至るまで宗教、儀式、古代の政治組織に関して住民の書いた文献は一片も見あたらない」(1)と述べ、またボバディーリャは1640年に「住民たちは互いのコミュニケーションのためにのみ、文字を使い、歴史や科学を論じた文書は存在しない」(2)と述べている。
だが、Slacedo (Casal et al. 1998: 222)は、当時の住民の居住地は海岸、川沿いにあり、ある程度の交易活動があったろうから、文字は当初は商取引を記録するために、使われていて、その後、フォークロア、詩、歌を記録するために使われるようになったと推測している。
スペイン人によるラテン文字の導入後、バイバインの使用は徐々にすたれていった。その使用目的は、実用的目的から、装飾あるいは呪術的な目的へと退化してゆき、Scott (1984:48)によれば、竹にバイバインで、まじない、呪い、歌などを書いたものが、家の入り口に置かれたりしたという。遺言状はラテン文字で記されるが、Scott (1984: 56)によれば、17世紀の半ばまでは、その署名にはバイバインが使われていたが、ミンドロ島で1792年に使われた例を最後として、バイバインは消滅したという。

2.3 バイバイン以外の文字(現存するもの)
Robert Fox (Casal et al. 1998: 223)は、フィリピンの文字体系を比較研究した結果、少なくとも16の文字体系がかって存在しており、それらは、明らかに共通の文化から生じたと述べている。
ところで、現在でも生き残っていて、実際使われている例があるという。Scott (1984: 56)とSalcedo (Casal et al. 1998: 225)によれば、植民地社会の中で、孤立していた部族の中には、独自の文字体系を保持していた例があったとしている。19世紀の終わり頃に、フランス人アルフレッド・マルシェがパラワン島を探検して、タグバワン族が、独自の文字体系を保持していたことを発見した。またドイツの研究者であるマイヤー、シャッデンベルク、そしてフォイがミンドロ島のマンギャン族を調査したが、この部族は昔からの文字体系を依然コミュニケーションに用いている、と報告している。さらに、1971年にミンドロ島で、また別の文字体系が発見された。現在、南部と北部のマンギャン族が2つの異なる文字体系を発達させていることが分かっている。これらは現在絶滅の危機にさらされているが、南のマンギャン族の地域では、小学校で土着のマンギャン文字が教えられている。しかし、必須科目ではないので、その文字が将来も生き残っていく可能性は必ずしも大きいとは言えない。

3. チリーノとモルガの記述
当時のフィリピンでは、少なくともマニラの周辺では、住民のほとんどが読み書きができたとする報告がいくつか存在する。それらの報告の中で、チリーノとモルガによる報告が重要である。フィリピン人の読み書きの普及に関する最も古い記述は、1600年に執筆され、1604年にローマで刊行されたイエズス会士ペドロ・チリーノの『フィリピン記事』Relación de las Islas Filipinasの中にあり、その該当部分は次のようになる。

この島の人々は皆読み書きができ、男ではマニラの島に特有の文字で読み書きの出来ないものはほとんどいなかった。女の場合はさらに少なかった。この文字は中国、日本及びインドのものとは全く異なっていた。母音は3つで5つの用をし、子音は12にすぎず、これは子音を記すにも母音を記すにも使用され、上にもまた下にも点をつけることなく、そのままでaの音を加えて発音した。上に点をつければ、eまたはiの音をつけて発音し、下に点をつければoまたはuの音をつけて発音する。従って例えば、Camaを表す場合には点をつけずに2字で十分であり、これに上または下に点をつければ別の語になる。彼らはわれわれによって左から右へと書く習慣を取り入れたが、それより以前には上から下へ書き、また左に第一行をはじめ、右にうつるのでちょうど中国や日本の場合と逆である。(モルガ 1978: 337-8)

同様の記述のあるものとして、モルガの報告が挙げられる。モルガは、司法行政院の審議官ならびに代理総督として、フィリピンの司法行政に関与した。彼は『フィリピン諸島誌』Sucesos de las Islas Filipinas を、1603年に執筆して1609年にメキシコで刊行した。これは、当時のフィリピンの状況を知る上で、きわめて重要な資料となっている。まず、パサイ島やセブ島の人々について、次のような記述がある。

すべてのピンタド族やビザヤ族の言語は同一であり、その言語は話しても、文字で書いてもお互いに理解し合う。彼らはアラビア文字に似た特殊な文字を持っており、原住民の間では、普通、木の葉や竹の皮の上に書いている。竹は全諸島を通じて豊富であり、筒は太くて不格好な形をしており、根本は非常に太く、中のつまった一本の木となっている。(モルガ 1978: 336)

モルガがフィリピンの人々の読み書き能力について述べてある個所は次の文章である。

全諸島を通じて、原住民は、ほとんどギリシア文字かアラビア文字に似た文字で、非常に立派に字を書く。文字は全部で15で、そのうち3つが母音で、われわれの5つの母音の役割を果たす。子音は12で、それらはすべて点やコンマを持っており、組み合わさって、書きたいと思うことは何でも、われわれのエスパニャ語のアルファベットで行うように、ふんだんにしかも容易に表現する。
字を書く順序は、かっての竹の場合も今日の紙の場合も、アラビア語式に、行を右から始めて左へ書いてゆく。原住民のほとんどは、男も女もこの言葉で書くことができ、うまくしかも適切に書けない者は極く僅かしかいない。(モルガ 1978: 337)

モルガの『諸島誌』はフィリピン文化をきわめて好意的に高く評価しているのが特徴である。ホセ・リサールがヨーロッパ滞在中に、大英博物館でモルガの『諸島誌』を読み感銘を受けて以来、この本は広く注目を浴びるようになった。リサールはスタンりー卿による同本の英訳本に接して、その価値を直ちに認め、さらにスペイン語による原本も見つけ、原本の注釈を試みた。その注釈本は1890年にパリで出版された。リサールは、モルガの『諸島誌』を、スペイン人到来以前のフィリピンが文化的に卓越していたを証明する重要な文献とした。彼は、スペイン人による植民地化が始まってから、フィリピン人たちは「古い伝統も、昔の思い出も、少しずつなくしていった。文字も、歌も詩も、法律も忘れた」(リサール 1976)と述べている。モルガの『諸島誌』の記述がフィリピン独立運動の大きな精神的支えになったのである。
チリーノとモルガの報告は現代の歴史家や言語学関係者によっても、そのまま受け継がれている。Bernabe (1987: 8-9)は、「歴史家達によれば、当時のフィリピンの住民のほとんどは、男も女も読み書きを知っており….」と述べている。また、最近出版されたフィリピン通史Kasasayan: The Story of the Filipino People の第2巻には、「住民のすべてがすでに読み書き能力があるので、スペイン人の年代記の編者たちが驚いた」(p.221)と述べ、また「スペイン人が伝統的なフィリピンの文字を、ラテン文字で置き換えをはじめてから、フィリピン人は読み書きができなくなり、フィリピン人は未開人であったとの誤解が生じる原因となった」(p.221)と記述している。在野のフィリピン文字の研究家Santos (1996)も読み書き能力の普及説を唱えている。

4. 普及説に対する疑問点
16世紀のフィリピンの人々がほとんど読み書きできたとするのは、常識的に信じがたいとして、チリーノとモルガの報告を疑問視する説がある。その疑問点をまとめると、次のように整理される。

4.1 残存している文献資料がほとんど皆無である点
住民の間で読み書き能力が広まっていたならば、当然バイバインで書かれた文献が相当数残っているはずであるが、ほとんど皆無である。Scott (1995: 212)によれば、16世紀以前のバイバインの資料として残っているのは、プラセンシア神父が Doctrina Christiana の中で紹介しているのが唯一の例である。

4.2 普及説を裏付ける中国人・スペイン人の資料が欠けている点
Corpuz (1989)は次のような事実を指摘している。16世紀以前に、交易で訪れていた中国人の報告の中に、文字体系の存在に関する記述がないこと(p.20-21)、さらに、1521年に到来したマゼランの一行の記録係であるピガフェッタは、ゆくところ各地の住民の言語状態を記述しているが、文字の存在について、何ら記録を残していないこと(p.21)、1565年のスペイン人による遠征の際に、かれらが滞在した間に数多くの報告や手紙がスペインとメキシコへ送られ、その中に原住民に関する数多くの事象が記されていたが、文字の存在について何一つとして報告がされていないこと(p.21)、チリーノとモルガの報告は1600年頃に書かれたが、それ以前のスペイン人の記録には何ら住民の間の文字の普及についての言及がないこと(p.25)、である。つまり、当時のスペイン人には、植民地に関することは森羅万象すべてを記録しようとの傾向が見られたが、何も触れていないのは文字が普及していなかったからである、とCorpuzは主張している。

4.3 普及説をむしろ否定する資料が数多く存在する点
マゼラン一行のピガフェッタが、原住民との会話を筆記して、それを読み返すことで、先ほどの内容を復元したので、原住民たちは驚いた、との記述がある(コロンブス他 1991: 538))。また当時の文献には、フィリピン人の間で文字体系が広まったのは、つい最近である、(少なくとも、ビザヤ族の間では、普及は始まったばかりである)、との記述が数多く見られる。その例として、パナイ島の大地主であったミゲール・デ・ロアルカは、1582年の時点で、ビザヤ地方には文字がないとの記録を残している(Corpuz 1988: 30)。また、チリーノ自身もビザヤの人々はつい2,3年ほど前に文字体系を取り入れたばかりだ、と記述している(Corpuz 1989: 32)。Santos (1996)によれば、フランシスコ・コリンの1663年の報告と フランシスコ・アルシーナの1668年の報告では、ビザヤ人はタガログ人からつい最近文字体系を取り入れたばかりである、と記述している。リコレート修道会の報告(Corpuz 1989: 27)では、ルソン島のマリレレスとミンダナオ島東部のカラグアでは、人々は、裁判を口頭でおこなう、と述べている。裁判でさえも文字で記録を残さないならば、その社会に文字が普及していたとは到底考えられない、と考えるのは自然であろう。

4.4 チリーノとモルガの報告の記述自体への疑問点
モルガの『諸島誌』の内容の信憑性についても疑問が投げかけられている。『諸島誌』は全体で8つの章に分けられていて、その第8章は読み書き能力をはじめとして住民の習慣・風俗を扱っているが、その章の記述は、直接住民との接触によって書かれたものではない。箭内(モルガ 1978: 18)は、「行政官としてまた司法官としてマニラに居住したモルガは、諸島内を旅行して原住民の習俗に接する機会はほとんどなかったであろうから、その記事は ...抜粋となり、また第三者からの聞き取りに拠らざるを得ず、その結果不完全な叙述になったと考えられる」と述べているように、モルガは直接に見聞きしたものを記述したのではない。
また、チリーノの文献に対しては、箭内(モルガ 1978: 19)は、「チリーノの報告はフィリピンに関する記事としては最初のものであり、その内容にも優れたものが認められるとはいえ、イエズス会の布教史の立場から執筆されており、かつ簡略すぎる」と述べ、資料としての価値はある程度割り引くべきと指摘している。同様に、Scott (1984:53) も「この記述は、スペイン人が抱いているフィリピン文化への軽蔑への反論のために誇張して書いたのであろう。ともかく、16世紀のフィリピンが当時の他国と比べて、また現在のフィリピンよりも、識字率が高いということは、ありそうもないことである」と述べている。
また、チリーノ、モルガとも、自分の所属する組織(イエズス会、スペイン国王)への報告であり、当時よくあったように、自分の実績を強調するために、内容を誇張する傾向があったろう、と考えられる(Corpuz 1989: 36)。さらに、チリーノとモルガの報告は、どちらかが一方の内容を借用したか、あるいは、ある共通の資料に基づいたものであり、普及説を唱える他のいくつかの報告も、その共通の原資料に基づいた、と考えられる(Corpuz 1988: 27)。

4.5 発音区別符号がまだ十分に発達していない点
フィリピンの諸言語の発音を正確に表記するために必要な発音区別符号がバイバインでは、十分に発達していない。近隣の言語であるブギ語、マカサール語、マンダール語では、発音区別符号が数多く発達して、発音を正確に表記できるようになっていて、バイバインと対照的である(Scott 1984:61)。このことはバイバインという表記体系が、16世紀の時点において、比較的最近フィリピンに導入されたことを示している。そのことから、バイバインが住民に普及するだけの十分な時間は無かったろうと思われ、チリーノとモルガの報告に対して疑問を投げかけることになる。

5.普及説
前述のように、フィリピンでの読み書きの普及を疑問視する説もあるが、それに対して、普及説は次のような論拠を示している。

5.1 普及を裏づけるいくつかの報告の存在
チリーノとモルガ以外に、ダスマリナス、コリン、アルシーナ、デラガーノたちも、同様に住民の間で読み書きが普及していることを報告している(Reid 1988:216)。 ただし、これらの報告は共通の資料を用いたので、原資料の勘違いをそのまま受け継いだだけである、との反論がある。
また、植民地化される以前の東南アジアでは、各地である程度の文字が普及していたとの報告があり、フィリピンでも同様であったと思われる。Reid (1988: 216)は、1656年のvan Goensの記録の中に、ジャワ島やバリ島の人々の大多数が読み書きできるとの報告があることを指摘している。さらに、Reid (1988:220)は、男女間の求愛には、詩歌を書きつけた物を相手に送る慣習が、当時の東南アジア全体に見られるが、これは少なくともある程度の文字の普及を示している、と述べている。

5.2 残存している資料の少ないことの説明
当時の文字の記された文献がほとんど残っていない点に関しては、一つは、記録されたものが、竹、樹皮、葉のように壊れやすいものに書かれたので、資料が残っていないのだろうと考えられる。
次に、スペインの教団僧たちが、異教の文献と考えて、組織的に住民の文献を破壊したのではと思われる。フィリピンで行ったとの直接的な証拠はないが、スペイン人は南米のアステカで原住民の書き物を大がかりに破壊したので、フィリピンでも同じことを行ったろうと推測される (Hernández 1996: 13)。ただし、Corpuz (1988: 29)は、植民地時代を通して、ごくわずかのスペイン人しかフィリピンにいなかった、例えば、1588年時点で、百万人以上のフィリピン人がいたが、スペイン人はわずか800人だけであったので、原住民の所有する文献を破壊し尽くすのは不可能だろう、と述べている。
また、たとえ書かれた文字資料が残存していなくても、それは文字が普及していなかったこととを指し示すとは限らない、と普及説は主張する。スペイン人が到来した16世紀には、フィリピンでは国家が形成されてなく、文字資料を管理保管する職種(書記、祭司、経理係等)がまだ誕生していなかったからと考えられる。文字の役目はきわめて、個人的な目的に限られており、その保管にはさほど関心が払われなかった、と考えられる。

まとめ
両説を比較してゆくと、普及説には、やはり大きな疑問が残る。ここでは、チリーノとモルガがそのような報告をした理由を考えてみたい。西洋人の東洋に対するある種の憧れと幻想が大航海時代の原動力の一つであった。海の彼方に、高い文明と豊かな富を持つ理想郷があるとの信念を抱いて、彼らはきわめて危険な航海へと出かけていった。彼らは、富や高い文明を求めて、それに関する情報にきわめて敏感であったが、時にはその求めにそった情報のみを無意識のうちに選択することもあった。その意味で、西洋人の持っていた共同幻想の枠組みの中で、チリーノとモルガの報告は理解されなければならない。
また、フィリピン人にとっての、この報告の意義を理解しなければならない。ホセ・リサールが発見したスペイン人到来以前の理想郷としてのフィリピンは、フィリピンの独立運動のために必要なイメージであった。19世紀のフィリピンという後進国としてのイメージの定着していた国で、自己イメージの転換を図りながら独立を勝ち取るために、是非とも必要とするイメージであった。チリーノとモルガの記述は、その意味で、きわめて現実的な力を発揮したのであった。多くのフィリピンの歴史書が、この記述を受け継いでいることは理解できることである。
なお、ここで、普及説の持つ意義にも触れなければならない。国家がまだ形成されていないフィリピンにある程度の文字が普及していたならば、それは、文字の公的使用・国家による管理が文字の普及に不可欠であるとの定説に対する強力な反証となる。聖職者、書記、宮廷詩人等が文字を担うのではなくて、普通の人々が自らの個人的な目的のためだけに文字を使う社会が存在したことを示すことになる。
ミンドロ島のマンギャン族は、まだ伝統的な文字を用いているが、収穫を祝う祭りの際の求愛の歌を覚えるために、その文字が使われている(Reid 1988: 219)。パラワン島の部族も、伝統的な文字を主に個人的なコミュニケーションや詩を書くことに用いている(Santos 1996: 40)。これらの事実はスペイン人が到来したころに、バイバインがどのような目的に使用されていたかを示していると思われる。
スペインによる植民地化の進展により、伝統的な教育体制の崩壊、強制労働等により、人々の読み書き能力が低下したと考えられる。またイスラム文化の到来も人々の読み書き能力にマイナスに作用したと考えられる。当時は、女性が商業的にも社会的にも活躍しており、文字の普及の担い手であったと思われるが、南部からのイスラム文化の伝播により、女性の社会的な地位の低下、文字能力の低下をもたらしたと思われる。Reid(1988)によれば、アラビア文字はコーランを読むためのものであり、文字が聖職者の専有物となり、女性をはじめとする一般の人々は文字から遠ざかる結果になってしまった、と言う。とにかく、16世紀までの伝統的なフィリピン社会はスペインとイスラムという大きな衝撃により、大きな変革が起こったことは間違いないと思われる。


(1)Francisco de San Antonio. 1735. Cronicas de la Provincia de San Gregorio Mangno
(2)Diego de Bobadilla. 1640. Relation of the Filipino Islands by a Religious Who Lived for Eighteen Years

文献
コロンブス、アメリゴ、ガマ、バルボア、マゼラン(長南、増田訳)1991. 『航海の記録』大航海時代叢書第1期1 東京:岩波書店
モルガ 1609 (神吉、箭内訳)1966.『フィリピン諸島誌』大航海時代叢書Ⅶ 東京:岩波書店
リサール、ホセ(岩崎玄訳)1976.「フィリピンの今から百年」『反逆・暴力・革命』 東京:井村文化事業社・勁草書房
Bernabe, Emma J. Fornacier. 1987. Language Policy Formulation, Programming, Implementation and Evaluation in Philippine Education (1565-1974). Manila: Linguistic Society of the Philippines.
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Corpuz, O.D. 1989. The Roots of the Filipino Nation. Quezon City: Aklahi Foundation.
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