カナダにおける英語とフランス語の対立 (1992年執筆)
目次
1.はじめに
2.カナダの言語の歴史的背景
3.現状の言語状況
4.言語政策
4.1.連邦政府の言語政策
4.2.ケベック州政府の言語政策
5.おわりに(将来への展望)
1.はじめに
世界の中では言語に関する紛争が数多く生じており、『言語戦争』なる表現さえある。多民族から構成される国家は、ほぼ例外なくこの言語戦争に苦しんでいる。合衆国とカナダは共に広大な国土と移民の国であり、数々の人種が混在しているという点で互いに似通った国である。そのため典型的な言語戦争が見られる。合衆国ではスペイン系の住民の増加によるスペイン語の公用化への動きが生じている。カナダではケベック州のフランス系住民とイギリス系住民との反目は現在に至るまで続いており、主に言語に関する権利の問題、つまり英語とフランス語の言語戦争という形式をとっている。その紛争の程度はマスコミでの議論の応酬という形から、暴動、流血事件に至るものまで様々である。これらの言語の問題は、人間の母語に対する愛着と関連するものであり、杓子定規としての解決策は存在しない。
本稿の目的はこの言語戦争の実態と解決策への展望について述べようとするものであるが、ここでは事例研究としてカナダにおける言語戦争の例を取り上げる。つまりカナダにおける(1)イギリス系住民とフランス系住民の抗争と、その言語である英語とフランス語の対立の経緯を調べ、(2)その背後にある経済的問題と言語文化的問題について検討を行い、(3)これらの解決策としてカナダ人がどのような展望を抱いているか、について述べようとするものである。なおカナダは合衆国と歴史的・地理的に似通って面があるので、適宜合衆国との対照をも行うものとする。
2.カナダおける言語抗争の歴史的背景
2.1 カナダの地理的特徴
カナダは地理的に広大であり、中央に大山脈、カナダ楯状地等のために地域が分散して存在しており、また交通網も合衆国と比べて貧弱であり、横の結び付きは脆弱である。逆に地理的には、縦のつながり、すなわち合衆国と共有する点も多い。ブリティシュ・コロンビアはオレゴン州、沿海州はニュー・イングランドの延長とも考えられる。そのため、沿海州人、オンタリオ人、あるいは西部カナダ人としての各地域への帰属意識を持っている。この地域主義はカナダが現在直面する最大の問題の一つであり、国家としての求心力を弱めている。また各民族は米国と比較してより隔離して生活することができ、民族の特徴を保持しやすい。これらのことよりカナダという国家の形成にあたっても一つの完全な立法権を持つ連合にならずに、緩やかな連邦制という形式を採用し、地方集権型の国家となった。
ところで合衆国はよく「人種のるつぼ」と呼ばれるのに対して、カナダは「人種のモザイク」と呼ばれる。その意味するところは合衆国では比較的人種がほどよく混合・同化しているのに、カナダでは各民族が並列的に存在しているという事実、特にフランス系カナダ人が歴史的に同化を強く拒絶して、現在において特定の地域にその住民がかたまっている事実を示している。このフランス系カナダ人とは長いことカトリックとフランス語の使用という形で自己の文化の保存が可能であった。その中でもケベックの分離運動は一番の注目を浴びている問題であり、現カナダの抱える最大の問題の一つでもある。
英系住民と仏系住民の歴史的対立
1534年フランス人ジャック・カルティエがセント・ローレンス川をさかのぼり、現在のケベック、モントリオール州の周辺を探検、1608年にはシャプレーンがケベックに要塞を築き、17世紀末には植民地ニューフランスが誕生した。しかしイギリスとの抗争が続き、1755年に決定的戦いに負け、その後イギリス領になった。その当時アメリカ13植民地において独立運動が発生していたために、フランス人の歓心を買うために、イギリス政府は寛大な政策を取った。1774年の「ケベック法」でケベックのフランス人に対して、荘園制度、カトリックの信仰、フランス民法の堅持とフランス語の使用を許して、ケベックの伝統的な政体、法秩序、文化の存続を認めた。そのため、カナダはイギリス系とフランス系の二つの民族から成立する国となった。
このような歴史的背景から、カナダはおもに英仏両民族の国である。政治体制は連邦主義であり(1867年発足)、相互に平等な立場であることが唱われた。しかしこの英仏両民族の抗争はカナダの歴史の中で繰り返されてきた。1869年から85年にかけてのルイ=リエルの反乱、1889年のマニトバ学制問題、1899年のボーア戦争への派兵問題、1914年からの第一次大戦の徴兵問題はその対立がもっとも鋭角的に現れた。そして現代ではケベック問題と言われているフランス系住民の独立への志向が数々の問題を起こしている。
3.現在の言語事情
現在のフランス系住民の関心は、フランス語の話者が徐々に減りつつあることと、フランス系住民が長いことイギリス系住民に対して経済的に不利な立場に置かれていることである。
3.1.減少するフランス語話者
カナダの民族的構成は1981年の統計によれば、イギリス系住民が40%、フランス系住民が27%、その他の住民が33%(内訳はドイツ系住民が5%、イタリア系住民が3%、ウクライナ系住民が2%等々)である。歴史的に見れば、カナダは主にイギリス系住民とフランス系住民よりなる国であったと言えよう。1763年の時点では65、000人のフランス系住民が住んでいたが、このフランス系住民はきわめて出生率が高く、急速に人口が増加した。19世紀までの人口増加率は4~5%であったと言われている。(フランス系カナダp.24)彼らはだいたい大家族で住み、10人以上の家族構成も珍しくなかった。北米の覇権を握ったイギリス系の住民に対して、フランス系住民が人口の面から圧倒しようとするかのようであったので、これは「ゆりかごの復讐」と呼ばれた現象であった。そのためフランス住民の数は、母国からの移住はほとんどなかったにもかかわらず、一世紀後の1871年には70万に増加した。イギリス系住民も絶えまない移民により増えていったので、フランス系住民の数はほぼ全体の1/3から1/4の割合を維持していた。分布の地理的特徴としては、カナダ全土に均一に分布しているのではなくて、特定の州、オンタリオ、ニューブランズウィック、ケベックの三州に多いことが挙げられる。とりわけケベックに集中している。ケベック州はカナダ全体のおよそ4分の1、600万人ほどが住む人口集中地帯であるが、そのうち80%がフランス系カナダ人である。
近年フランス系住民の比率が減少し始めている。同時にフランス語の話者の比率が衰退し始めている。これは20世紀中ごろから顕著になった現象である。フランス系住民の数は、1951年に31.6% 1961年に30.4% 1971年に28.7% 1981年に26.8%と徐々に低下している。並行してフランス語の話者の比率は、1961年に28.1%、1971年に26.9%、1981年に25.7%へ低下している。
この現象をケベックとケベック以外の地域とに分けると、ケベックにおいては1951年に82.5% 1971年に80.7% 1961年に82.4% 1981年に82.4%とほぼ横ばい傾向を示している。しかしケベック以外の地域ではフランス語の英語への同化現象は顕著である。そのため全体としてはフランス語話者の比率の低下を示している。このことはケベックはフランス語系住民の本土という意識が生じて、多くのフランス語の話者が集まりつつある。そのことは逆にさらにまた一層の西部におけるフランス語の衰退を意味している。一般に住民の話者の数がへると加速度的に言語の維持能力は減少すると言われている。例えばフランス系住民の比率が20%以下の地域ではフランス系住民自身の中でもわずか20%しか家庭でフランス語を用いない。しかしこれが住民の数が25~50%になると約2/3以上の家庭で用いている。さらに住民が80%以上になるとほぼ100%近くの家庭でフランス語を用いている。西部地域でのフランス語の減少は拍車がかかりつつあると言えよう(注1)。カナダ全体で160万人がフランス語話者から英語話者へ鞍替えしたのに対して、逆の例はわずか11万人しか見られなかった(Wardhaugh, 1983:77)。
これらの原因として社会全体の動向と個人の意識の変化が考えられる。社会全体の動向として、(1)はじめにケベックの出生率の低下がある。かってカナダ一の高出生率を誇ったケベックは、教会の影響の低下につれて堕胎が行われるようになり、また生活の高度化にともない、あまりに多くの子供の数を持ちたがらなくなり、その結果1971年にはケベックは、カナダにおいて最低の出生率に落ち込んだ。つまりフランス語話者の自然増が期待できないこと、さらには新しい移民がフランス語を選択することが稀になってきたも特徴である。
(2)さらに戦後のカナダの人口上の特徴として考慮しなければならないことは、海外からの移住者の行動パターンの問題、カナダ全体が都市化していること、そしてカナダの内部において東から西への移動が生じていることである。これらはすべてフランス語の話者にとって不利に働いた。
戦後も海外からの移民は続いているが、その種類は前世紀の北欧、ドイツ、オランダ系から、東欧・中欧系そしてアジア系と比重が変化してきた。これらの移民は自らの言語を保持する傾向にあると同時に、フランス語よりは英語を選択する傾向にある。また海外からの移住者はおもに都市地域に住み着くのでカナダ全体の都市化に結びつく。1971年の統計では新しい移民の定住先は、オンタリオ州(51.8%)、ブリティシュ・コロンビア州(15.1%)、ケベック州(14.2%)、大西洋地域(20%)、中部プレーリー地域(16.7%)となっており、主として英語が話される西部地域が選択される傾向がある。また戦後は西部地域が新興の産業地域として比重を増して、東部からの人口を受け入れつつある。
人口の流入動向から判断すると確かにケベックは一番安定した動きを示す。つまりケベックからなかなか人は移動しないために、急激なフランス語話者の減少は有り得ないとしても、少なくとも今後もフランス語の没落傾向は予想できうる。そのためにフランス系住民の間では危機意識が高まってきた。この傾向に対して何らかの立法措置を講じるべきであるとの認識が強まった。
元来ケベックのフランス系住民は農村地帯に住み、カトリックを信仰する住民たちであった。彼らは比較的他の英語話者と隔離した生活を送っていたことと高い出生率により、フランス語を保持してきたと言えよう。しかし急激な都市化現象により彼らの間に意識の変化が生じてきた。その一つはケベック州内において経済の実権を握っているのは英系カナダ人であるとの事実に対して、実権を取り戻そうとの意識である。自らが植民地のような状態であることに対する不満であった。またフランス語が北米大陸において消滅の危機にひんしているとのじかくである。元来ケベックは高い出生率を誇っていたが、近年低下してカナダの平均以下になり、このまま新たな移民による増加が期待できない以上、消滅は必至であるとの自覚である。
個人の意識の問題としては英語が社会的階段を昇のに有利であるとの認識を数多くの個人が持っていることが挙げられる。それを次章で検討してゆく。
3.2.政治経済的現実
カナダにおける英仏住民の棲み分けはフランス系住民は田舎に住み、林業と農業に従事する。イギリス系住民は都市に住み、商業や工業に従事するという色分けが成立していた。それぞれが別々の生活をしていたが、このことがフランス系住民の間におけるフランス的な文化と言語の継承に役だっていた。しかしそれゆえに、産業革命時にフランス系住民には資本の蓄積もなく、経済の発達にともなって、その発達の恩恵をこうむるのが、もっぱら英語系住民であるという結果を生み出してきた。そのためケベックにおいてさえも基幹産業は英語系住民の支配するものであり、フランス系住民はそこの労働者として雇用される場合が多かった。いわばケベックにおいて一種の植民地状態が生じていたのである。
政治・経済の分野では、イギリス系民族が優位に立っている。政府の高官、経済界の要人はイギリス系の比率がきわめて高い。一方フランス系カナダ人はおもにブルーカラーならびにサービス業に従事しており、都市のスラムも仏系カナダ人がほとんどである。その事実を反映して英語が社会的向上に有益な言語であると判断され、フランス語話者の4割は英語を理解するが、英語話者のわずか2割しかフランス語を理解しない。いわば上流に英語、下層に仏語という diglossia ができつつあった。この事態は仏系が大半を占めるケベック州においても同様である。この事実を反映して英語とフランス語のバイリンガリズムの内訳は下の通りである。
カナダの人口 2、330万人
英語のみ話す人 67.1%
フランス語のみを話す人 18.0%
英語・フランス語両方を話す人 13.4%
英語・フランス語の両方を知らない人 1.5%
さらに各話者の年間の収入は次の通りである(Wardhaugh,1983:79)。
英語のみを話すイギリス系 6049$
英仏語を話すイギリス系 5929$
英語のみを話すフランス系 5775$
英仏語を話すフランス系 4523$
フランス語のみを話すフランス系 3107$
フランス語のみを話すイギリス系 2783$
このように明らかに英語が収入の多さと関連性がある。また Lieberson(1981:173-183) はモントリオールにおける英語系新聞とフランス語系新聞の求人広告の比較より数々の興味深い事実を提示した。ひとつは英語話者は学歴に関係なくほぼ4割前後がフランス語を話せるが、フランス語話者は学歴が上がるにつれて英語を話せる割合が増え大卒ではほぼ全員が英語を話せる傾向にある。つまり高度の職業になるにつれて英語の必要性が増大するのである。さらにすべての職業においてフランス系住民に対して英語の能力を要求する割合は、イギリス系の住民に対してフランス語の能力を要求する割合よりもはるかに高いとの結果がでた。職業の面においては激しい英語習得への必要性があることになる。
さらに Danoust-Blais (1983:210) が紹介した実験によれば、フランス語と英語のそれぞれのイメージを調査したところ、英語がはるかに知的、高い教育、個人的魅力を感じさせるとのことである。カナダにおいて、フランス語は英語と比べて長期凋落傾向にある。ある調査によれば、イギリス系住民とフランス系住民が結婚した場合、およそ90%の家庭が家庭で話される言語として英語を選択するという(Wardhaugh,1983:107)。さらにカナダは毎年数多くの移民を受け入れているが、彼らの多くは英語を話す傾向にあり、フランス語に対しては無関心を示している。それは特に子供の教育を考えた場合に英語が話せる方が社会的成功の確率が高いという事実と関連がある。そのため移民の増加につれてフランス系カナダ人のカナダの総人口に対する比率は徐々に減少している。北米全体として、英語圏であり、特にアメリカ合衆国の影響は強く、英語の影響をどうしても受けやすい。またカナダにおける政治経済上の実権を握っているのはイギリス系住民であり、社会的に向上しようとするならば、どうしても英語を選択せざるをえない。このように長いこと政治的・経済的に劣等感に悩まされてきたフランス系カナダ人にとってその象徴はフランス語の衰退傾向である。
その経済的差別を受けているとして、深い憎悪の念をイギリス系カナダ人にもっているフランス系カナダ人に答えるために、二つの解答が準備された。それは連邦政府が提示したイギリス・フランス系の双方が平等の連邦をつくろうとする運動と、ケベック州の分離独立を要求する運動である。
4.政府の言語政策
ここで特徴的なことは言語政策をおこなう主体が二つあるということである。すなわち、連邦政府とケベック州政府である。それはまた連邦主義・中央集権と地方分権との対立とも考えられうる。
4.1.連邦政府の対応
政府はこのような事態を打開するために1963年二言語・二文化政府委員会 the Royal Commission on Bilingualism and Biculturalism を設立して、答申を提出させた。それに基づいて1969年公用語法 the Official Languages Act を成立させた。この法の執行を監視するために Commissioner of Official Languages と a Bilingual Districts Advisory Board Vallee and Vries を設けた(1978:764)。その目標はフランス語が英語を比較して差別を受けてきた事実を認め、両言語の完全な平等を目指すものであった。つまりフランス語話者の任用・教育の場におけるフランス語の導入等を骨子とするものであった。これは自らが完璧な二言語話者であるトルドー首相のもとに遂行されていった。その政策の骨子はフランス語が伝統的に差別を受けてきた事実を素直に認め、この両言語の間の公平さを樹立しようとするものであった。その政策は上記の委員会の答申に基づいて行ったが、主に次の5点に絞られる。(1)両者の間の地位の平等さの確立。(2)公共機関を英仏両語で利用できるようにすること。(3)雇用の機会均等化。(4)少数民族の言語による教育の機会の提供。(5)多文化主義の遂行である。これらを順次見てゆく。
(1)両者の地位の平等は、公用語法の第二章で明示された。これは歴史的には連合法が英語優勢主義であったが、英領北米法が英仏両語の平等を唱っていることを受け継いでいる。すなわち英語とフランス語はカナダの公用語であり、政府議会において平等の地位と権利を保持することを再度確認した。その具体的な政策を監視するために議会にのみ責任を持つオムブズマンを任命した。政策の一つにフランス系話者の雇用の推進があったが、連邦政府は模範を示すために、自ら積極的に雇用をおこなった。また州政府にこの例に見習うように勧告をおこなった。特に人口における少数民族の比率が一割を越えるような地域を Bilingual Districts として教育・行政の面で言語的に不利にならないような立法措置が期待された。ケベック州と比較的高いフランス語話者をかかえるオンタリオ州(50万人)やニュー・ブランスヴック州(人口の34%)は連邦政府の政策に積極的にまねるように勧告した。しかしおもに財政的・政治的理由でほんの申し訳程度しかOLAを実施しなかった。結局は連邦政府の中においてフランス系話者の採用が進んだことと、ノバ・スコティア州とマニトバの連邦の官僚がフランス系話者への対応を考慮し始めたこと、そしてラジオ・テレビでのフランス語放送が増大したことが成果といえよう。ただし、連邦政府においても増大した官僚の多くは言語に関連する部門であり、科学技術の分野では相変わらず少ないとの問題点もある。これらのバイリンガリズムの政策は満足すべき成果を挙げたとは言えない。1978ー79年での連邦予算のおよそ1%(503カナダドル)を費やした、また納税者一人当り、およそ20$(1981ー82年)かかった。しかし国民の間では無意味な翻訳作業、教育、標識製作、出版に必要の無いお金をつぎ込んだとの感じは免れえない。
これらにより連邦政府のあらゆる刊行物は英仏二言語で出版されるようになり、多くの省庁や部局も二言語併用になった。海外にある連邦政府の機関も二言語主義を採用した。それゆえにそれらのポストで働くためには、二言語の能力が必要になってきた。連邦政府は官僚たちに公費で言語教育を実施しており、奨励策としてバイリンガル・ボーナス制度も設けられた。省庁によっては英仏二言語の語学試験に合格しないと採用しないところもある。
また連邦政府関連の企業、公社、産業もすべて二言語主義の採用を要請された。また1974年から法令により、すべての商品名は英仏二言語で記さねばならなくなった。
(2)雇用の機会均等化に関しては連邦政府はFLU(French language units) を創設した。これは職場でももっぱらフランス語のみを用いる機会を与えるために、フランス語の話者を集めた職場をつくった。しかしこれは非能率であるとか、フランス系の人々からも一種のゲットーであると評されて不人気であり、1977年9月にFLUは廃止された。
(3)教育においては、仏系カナダ人の3割がすでに二言語話者であるのに対して、英系カナダ人は95%がフランス語を知らないという事実から見て、二言語教育の対象は明らかに英系カナダ人の生徒である。政府は二言語教育を行う公立学校に対する補助金の支給を増大して、フランス語学習者の数を増やそうとしたが、しかし1970ー75年において英系生徒のフランス語を学習する比率は55%から42%へと低下した。英語系の州でもフランス語学習を必修にしたり、大学入試の必須科目にするようにとの働きかけは成功していない。また新しい移民は連邦政府のフランス語普及政策に冷淡である。
ただ immersion school という言語学校がきわめて流行している。それは例えば、英語系の生徒に低学年の時には全部フランス語で教育を施し、高学年になるにいたがって、徐々に英語も取り入れて、最後には英仏両言語がマスターできる仕組みである。
連邦政府は、二か国語政策は個人に負担を増すとの批判に対して、個人の段階における二か国語政策ではなくて、制度の段階における二か国語政策を追求するものとしてきたが、上記のようにやや挫折したために、個人の段階への二言語主義へ移行しつつある。その意味で教育の場での二言語政策は重要さをましてきている。
なお当初「二言語・二文化政府委員会」を設立した時の連邦政府の意向は二文化を遂行することであったが、これ以外の少数民族から激しい反発をくらい、政府は二文化主義から多文化主義へと転換した。しかし二言語主義に関しては政府は譲歩しなかった。それはすでに少数民族の98%がすでに英仏のいずれかを話せることと、多文化主義の中にすでに少数民族の言語の推進化も含まれていることである。
連邦政府は以下の7つのプログラムに補助金を出している。(1)少数民族に関する研究。(2)学外での少数民族の言語教育の奨励。(3)州数民族芸能の育成と発展。(4)少数民族団体の文化的集会。(5)移民・難民・亡命者の社会化および定住に関するサービス。(6)少数民族の歴史や文学の言語に夜出版および公用語による翻訳出版。(7)諸文化団体間のコミュニケーションや共同企画である。これらにより政府の政策は推進しているといえよう。
4.2.ケベック州政府の政策
以上のような連邦政府の政策にたいして、ケベック州政府も数々の政策をうちだしてきた。それは時として対立関係に及ぶことが多かった。これはカナダ連邦の意味についての解釈とも深いつながりを持つ。それは連邦政府は各州政府とおよそ対等の立場にあるとする解釈と、連邦政府が明らかに州政府の上にあるとの解釈の対立である。なおこれはフランス系住民の解釈であるが、1867年憲法は実はフランス系住民とイギリス系住民の間の盟約であるとの解釈である。その立場に立つならば、両住民は互いに対等であり、イギリス系住民を代表する連邦政府とフランス系住民を代表するケベック州政府は当然対等であらねばならない。いわば連邦政府よりもさらに、結合のゆるい連合政府であるとの認識である。
ケベックの言語問題も当然この両者の認識の相違の上に激しさを増していった。
連邦政府はこのように明確な形での二言語主義をうちだしてきていたが、それによって恩恵をあづかるものとされるフランス系住民を代表するケベック州政府は必ずしもこれに賛成の意を示さなかった。その理由は圧倒的に英語が有利なカナダにおいて平等な二言語主義は結局はフランス語の英語への吸収につながるとの恐れである。それ故に一番望ましいことはカナダの他の州とケベック州との間にある種の隔たりを造ることと、州内においてはフランス語のみの一言語主義を採用することであった。これは明らかに連邦政府の政策と対立する。それゆえにそこから数々のあつれきが生じてきたのである。
近年のケベックの特徴ある動きとして1960年の州選挙での自民党の勝利をきっかけとする「静かなる革命」が挙げられる。maitre chez vous なる言葉を合言葉に、自民党が政権を握ると教会から教育・社会事業を取り上げて、義務教育の年限を16才までに引き上げてまた、大学の増加、カリキュラムの近代化を計った。また労働法の改正、水力発電所の州営化、等の施策をおこなった。それはケベックのイギリス系住民の経済力を抑制することを意図した政策であった。これらの静かなる革命の主体は知識層・弁護士・医者・組合活動家・ナショナリスト等であった。
ところで以上のような情勢を踏まえて州政府の対応も変化してきている。それは可決された法案の内容によって伺いしることができる。以下それぞれの政府の言語文化政策を中心に概要を見て行く。
(1)1961年 Office de la langue francaise と Minist@re des Affaires culturelles の創立:これは主に言語の内容の改善を主とするものであった。できるだけケベックのフランス語を本国のフランス語に近づけることと、英語からの影響をできるだけ排除すること、科学技術の用語を確定すること等であった。
(2)1965年 フランスとの間に「教育協定」と「文化協定」を締結する。これは一地方自治体が他国と協定を結ぶのは異例の出来事である。
(3)1967年 ドゴール大統領がモントリオールで「自由ケベック万歳」の演説をおこなって、ケベック・ナショナリズムを扇動したが、これはイギリス系住民の怒りをかった。
(2)1968年 法案85号:主に教育に関する法案である。これは Education Department Act の修正であったが、注目すべき点は生徒にある程度のフランス語の知識を望ましいとした点で後の言語法の先駆けとなるものであった。
(3)1969年 法案63号:The Act to Promote the French Language in Quebec では英語系の生徒も a working knowledge of French を得ることを強要した。
(4)1974年 法案22号:フランス系の若いエリートたちは旧来の体制の打破をとなえある程度ケベック州の近代化に成功した。彼らはケベック党を設立して新しい道を模索し始めた。1960年ジャン=ルサージュに率いられた自由党が勝利をおさめ、いわゆる「静かな革命」が始まった。その背景にはアメリカにおける公民権運動の成功が挙げられる。これに対してトルドー政権は、前述のようにバイリンガリズムとバイカルチュラリズムをもとにする宥和政策をうちだしてきた。自由党政府はケベック党に対抗するためには自らも積極的な言語政策を取る必要を感じて、1974年法案22条を可決してフランス語のみを正式にケベック州の公用語とした。州政府の言語政策はおもに、Commission d’enqu}te sur la situation de la langue fran@aise et sur les droits linguistiques au Qu@becによって推進された。またそのフランス語化を監視する目的で L’Office de la langue francaise が創立された。
(5)1977年法案 101号:これが一番物議を醸し出したものであるが、1976年ルネ・レベックひきいるケベック党がケベック州の政権を握る。それと同時に過激な政策を次々とうちだしてきた。その最たるものとして、1977年にケベック州議会は「法案101号」=フランス語憲章を可決した。その言語政策の特徴は連邦二言語主義の一掃である。すなわちフランス語を唯一の公用語とする法案である。特徴としては連邦政府は英仏両語の公用語化を計っているのに対して、州政府は徹底的にケベックにおけるフランス語の唯一の公用語を押し進め、フランス語のみが立法、法廷、行政の言語であるとした。その法案の内容は法案22号をさらに押し進めた内容である。行政の面では、フランス語至上主義を強くうちだしてきた。ケベック州における諸法令、判決文、労使協定はフランス語版のみを公式とする。あるいは交通標識やポスターはフランス語のみが許される等である。
教育の分野では、今後新しくケベック州に移住する住民の子供は、すべてフランス語の学校に入学しなければならない。そのことは新しい移民をフランス語系の陣営に引き入れることを目的としていた。その場合例外となるのは、両親の一人が小学校で英語による教育を受けている時、本人か兄弟が英語による教育をすでに受けている場合、等である(Wardhaugh,1983:94)。しかし当然の結果として連邦政府や英語あるいは第三の民族は移民に教育の選択の自由を与えるように強く主張している。これは1960年代から1970年代にかけて移民は自らの子供を宗教上の理由からカトリック系を選ぶ場合でも、英語で授業を行う学校を選択する傾向が見えてきたことと関連する。さらにはフランス系住民の間でも自らの子弟を英語を使用する学校へ送る傾向が生じてきた。1967年 モントリオール郊外で St.Leonard school 事件が起こった。ケベック州政府がイタリア系移民の子供をフランス語学校へ移して、英語教育を打ち切ろうとしてことに対して、イタリア系住民は抵抗して選択の自由を求めた(Wardhugh,1983:90)。
さらに従来のフランス語化政策がおもに教育の分野での進出を目指すだけであったが、今後は仕事の言語への発展を目指し、英語から経済界における主導権をも奪回しようと試みた。法案22号では企業にフランス語化を進めるために、それに積極的な企業に対して、補助金等の優遇策を行う内容であったが、本法案は各企業にフランス語化を強制するものであった。従業員50人以上の企業はフランス語化の証明 francization certification を1983年までに提出することが求められた。それに対応できない企業は罰則等の規定が設けられた。求したが、各企業は従業員がすでに十分に二か国語能力を持っているとやや甘く報告をしたり、いくつかの企業は本社、支社をケベックから他へ移動するものもいた。
このように連邦政府は二言語文化主義を唱えるのに対して、州政府はケベックにおいてのフランス語のみの一言語主義を提唱している。そして連邦政府とケベック州政府は対等関係にあり、両者でもってある種の連合を構成するとの思想である。これらの言語法の大半は司法の手によって骨抜きにされたが今でも論争の的である。
しかし英語に対する反抗の理論が、逆にケベック州内の小数言語集団から同じ理論を提示されるとそれに対して反論することはできない。あるいはケベック州における英語話者の権利をどのように保護するかとの問題がある。
1980年にケベックの独立に向けて州民投票、すなわち「連邦政府からの脱退に関する交渉権」についてのレファレンダムが行われた。その結果は59.5%が反対であった。フランス系住民の過半数も独立には反対であって、ケベック党はまもなく独立推進派と穏健派に分裂して、1985年にはケベック党は敗退して、ここにケベック・ナショナリズムは低迷期に入ってゆく。
(6)以上言語法を振り返るとその特徴として、当初の言語政策はおもにフランス語内部の改善に重点がおかれていたが、徐々に英語に対するフランス語の復権という要素が色濃くなったきた。そのために教育の立法から、仕事の立法へと変化してきた。また当初は二言語主義を唱えていたが、フランス語のみの一言語主義へとへんかした。
これらの政策により統計的にはケベック州のフランス語化は成功しつつあると言えよう。1971年から198年にかけて、フランス語を家庭の言語と報告する例は80.8%から82.5%へと増加した。逆に英語を家庭内で使用する例は全体の14.7%から12.7%へと減少した。これはケベックにおける英語の話者のおよそ10%がカナダの他の地域へと出ていったことと関連がある (Wardhaugh,1987:226)。
ケベックにおけるその他の動向
以上のように州政府は主に言語問題を通して州政府と争いをおこなってきたが、それ以外にもマスメディアは重要な教宣の道具であるとしてケーブルテレビに関する権限の州政府への移転、フランス語圏との独自の外交・文化政策、そしてフランス語圏からの移住者を優先するために独自の移民政策を取ることを要求していた。
これらの州政府の立場が選挙そして連邦政府との交渉を通して独立の拡大を求める方向とするならば、テロ活動によりのみケベックの完全独立が可能であるとする過激派の存在も目についた。満足しない過激派FLQはテロ行為に走ったりした。しかし1971年ピエール・ヴェイルが合法的政治運動に転身を宣言してからFLQの運動は下火になった。
1982年の憲法改正問題でもケベックは連邦政府と対立をおこなった。ケベックは新憲法にケベックは英語圏の北米大陸に存在するフランス系住民の故郷として特別の責任があるとの文を入れることを要求した。
フランス系住民の文化と言語
フランス系住民の中心にはカトリックの信仰がある。教会は教育を管理しており、教区の司祭は村々を支配した。教会は農村社会の社会的価値を賞賛して、都市に対して反感をつのらせていた。教会の提唱する教育は宗教学と人文科学に重点をおいて、技術教育や科学者、社会科学の分野には興味を示さなかった。また女性に対する教育の必要性は認めず、もっぱら初等教育程度で十分と考えていた。つまり教会にとっては教育よりも信仰を重視する傾向があった。
ところが近年都市化が進み、高学歴と専門教育が必要となってくるとどうしてもそれを受けることの少なかったフランス系住民は雇用の機会が単純労働へと限定されてくる。しかし近年そのような状況に対してフランス系住民の間でも、カトリックの影響の減少、社会科学の研究者の増大、専門職者の増大、いわば中産階級が誕生してきた。かれらは旧来の信仰主義に抗議をとなえ、フランス系住民の復権を叫んだのである。その意味でカトリックに変わる新しいアイデンティティとしてフランス語が焦点を浴びることとなった。
フランス語はカナダにおいては被圧迫言語であるゆえに、その復権を図る場合の精神主義をは過激な要求にも結び付きやすい。それは偉大な文化伝統を誇る祖国フランス語文化圏への同化傾向である。長い間フランス語は文明語として第一の地位を保っていた。ヨーロッパにおいては第一次世界大戦の前までは外交の言葉として用いられていた。英語からの同化の危機に対して祖国のフランス語をよりどころとすることになる。それは純化運動である。長い年月の間にカナダのフランス語はパリのフランス語と若干の相違を生じてきた。それは特に下層階級、農村地帯で著しい傾向であり、たとえばケベック州を除くフランス系住民の割合は少ない地域では英語への同化現象が見られる。フランス語を英語の直訳のように話す傾向があるとされている。pas de fl}nnage は駐車禁止 d@fense de stationner であるが明らかにno loitering からきたものである(Burney,1962:51)。それに反して、エリート集団は不断に祖国の言語との連続性を保持しようとした。しかし近年見られる傾向として、ケベックのフランス語をそれなりに独自の個性を保持するものとして高く評価するグループも現れている。
フランス系住民にとって自らのアイデンティティに結び付くものとして、フランス語、カトリック教会、農村、農耕、大家族主義であった。しかしケベック州の工業化、商業化につれて、いわゆる世俗化が進み、教会は往年の権威を失ってきた。従来はフランス系住民とイギリス系住民との抗争はカトリックとプロテスタント、すなわち宗教の形式を取ることが多かったが、次第に言語の問題が抗争の第一舞台に躍りでてきた。
なおフランス系住民たちは教育にたいして、イギリス系住民たちとは異なる様式を示す。教会は初等教育以上の教育を奨励せずに、教育よりも信仰に重きを置いていた。住民はほとんど農業や林業に従事していた。高等教育において、経済、技術の分野への関心は薄く、神学や人文科学の研究が盛んであり、生活を有意義な文化の香り高いものへしようとする意識が強すぎた。
しかし現代において本国に対する思い入れもやや変化してきているようである。それはケベックのフランス人は本国のフランス語をモデルと考えているが(Daoust-Blais,1983:211)、近年郷里ケベックの標準的なフランス語を語りたいとか、フランス語の発展のために、本国とケベックのフランス語は等価値であるとの認識が深まってきた(Daoust-Blais,1983:213,220)。今後ケベック人の心の中に本国とは異なった独自のケベック人という意識が育ってゆくに違いない。
5.おわりに
カナダはその歴史的にみてアメリカからの吸収に対する恐れに常にさらされてきた。独立戦争時における王党派の大量の流入や米英戦争における合衆国のカナダ侵略は、本土イギリスへの忠誠心・親密感をまして、カナダの保守的な雰囲気を増長させた。しかし徐々に英国の植民地としてのカナダではなくて、新しいカナダとは何かとの問いかけがなされるようになってきた。その場合カナダのもつ色々な民族がその財産になるだろうとの認識である。
確かにイギリス系並びにフランス系カナダ人の文化態度の違いがよきにつけ悪しきにつけ上記の抗争を生じてきた。フランス系カナダ人はイギリス系カナダ人に比べて労働に勤勉でなく、生活享受型である、人の生き方とか文化に関心を示すが、7年戦争(フレンチ・インディアン戦争)の恨みをいまだに忘れておらずにいる。ここで近年この英仏両民族の抗争を越えてあらたな調和を見いだそうとの動きが顕著になってきた。カナダはアメリカとよく似ていると言われるが、それゆえに絶え間ない吸収への動きと対抗してゆかねばならなかった。それはイギリス系住民の間では英本国への連帯感であった。しかしその連帯感が薄まってゆくにつれて、新たな独自性を作り出してゆくことが必要となってくる。それは結局はイギリス人とフランス人が共存する国家ということである。むしろ現代ではカナダ人たるアイデンティテイを求めてゆこうイギリス系とフランス系の調和がむしろカナダ人の独自性、すなわちアメリカやイギリスと異なるアイデンティティを主張する根拠となっている。
またカナダでは近年英仏系住民以外の移住者が増えている。彼らにとって、英仏系の間の抗争には醒めた態度をとり、第三者の文化という観点からの要求の声を高めている。カナダは英仏系以外にもウクライナ、イタリア、中国、日本からの移民も存在する。彼らは自国の文化の存続を希望するが、自国の言語の存続までは希望しない。色々な文化を一つの言語のもとで(この場合は当然英語)というのが、彼らの希望の最大公約数であるとしている。その意味で、1970年代は「カナダ化」が盛んになった。カナダ化とは「多文化主義」すなわちカナダの諸民族の文化の独自性を尊重しようとするものである。1972年には多文化主義政策に責任をもつ国務大臣が定められ、諮問機関として1973年「カナダ多文化主義協議会CCCM」が設立された。結局はカナダの道はこの道であろう。
これらの新しい道の模索の可能性は1982年の憲法改正問題に象徴的に現れている。新憲法においてカナダの公用語について、第16条から第22条までに唱っているが、第16条の(1)では、「英語及びフランス語はカナダの公用語であり、カナダ議会及び、カナダ政府のすべての機関に置ける使用に関し、対等の地位、権利及び特権を有する。」としている。これは1867年憲法が第133条で述べた、「カナダ議会の両院及びケベック立法府の両院の討論において派、何人も英語及びフランス語のいずれも使用することができる...」と比べてはっきりとした前進を示している。
なおカナダにおけるケベックのフランス系住民の生き残りの問題は、北米におけるカナダの生き残りの問題でもある。そしてケベックの存在の意味を世界最高の文化言語であるフランス語と、世界最高の科学技術の言語である英語を結び付ける役目があるとする人もいる。
注
1.歴史的にみてこれらの地域は当初フランス語教育も盛んであったが、例えば1890年にマニトバ州においてカトリック系の学校にたいする援助が打ち切られた。1970年までこの状態は持続した。両大戦は移民たちの英語圏への同化を促した。1919年サスチュワン州では英語以外の言語を授業の言語として用いることを禁止した。これは1974年まで続いた。
文献
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