英語教育総合学会(6月9日)を聴く。


6月9日に英語教育総合学会が発表があった。最近は自分は小学校英語に関して関心があるので、小学校英語に関した発表を聴いてみたかったので参加した。これは自分の指導しているゼミ生が二人ほど、小学校英語に関する論文を執筆しているので、自分がその指導に当たらなければならないという理由もある。

発表の場所は、関西学院大学の大阪梅田キャンパス(ハブスクエア大阪10F)であった。自分は何回も訪問しているのだが、この日は場所が分からなくなって、かなりの時間うろうろして、貴重な時間を無駄にしてしまった。大阪周辺は本当に迷子になりやすい。

細江美佳先生(鳴門教育大学)は「これからの小・中接続した文字指導の在り方ーバランスト・アプローチによる系統性のある読み書き指導を」という内容で発表をされていた。自分が関心を持った点はアルファベットの教え方である。細江先生は大文字を教えてから小文字を教えるべきとの考えだ。「大昔700年から800年かけて大文字がいまの小文字になってきたのですよ」と小学生に語って、その具体的な変化の様子を教える。ビデオを活用して、たとえば、D が早く書くようにしてゆくと、しだいにdの形に収斂されてゆくことを実際に教えていた。(このブログでは、そのあたり視覚化して説明できないが、その点はご容赦ねがいたい)。B →b ならば、上の部分が取り除かれて b になってゆく。Aも一筆書きで早く書いていこうとすると a になる。歴史的な経緯を説明しながら、アルファベットを教えるのは面白い方法だと思った。

私のゼミ生の一人は、a/b   p/q   などの鏡文字をどうやって効果的に教えたらいいのか論文化している最中だが、細江先生のハンドアウトを渡して参考にしてもらえればと思う。

池田周先生(愛知県立大学)の「小学校外国語科における文字と音の扱いーどのようにして、そして、どこまで」も興味深い発表であった。音韻認識のレベルを、脚韻、音節、オンセットライム、音素と次第に深化していくと述べていた。この場合は音素というのは子音だけのレベルでもある。自分では理解し切れない面もあったが、要は小学生がどの程度音韻認識をするかを理解した上で、文字と音の指導を行うべきとの趣旨だ。

池田先生の話の本筋からそれるのであるが、池田先生はアルファベットは小文字から教えたらいいというようなことを話されていた。私の勘違いかもしれないが、その根拠として、国語の時間に教えるローマ字との関連性をその根拠にしていたようだ。

 

このあたり、実はゼミ生が、アルファベットは大文字からか、小文字からか、両方を同時に教えるべきか、またローマ字指導との関連性はどうなるのか、内閣式とヘボン式の関連は、等と悩んでいたので、この点は自分のゼミ生とも討議してみたいと思っている。

なお、別途資料として、成田一先生の対談記事「脳科学からみる早期英語教育」というプリントがあって拝読した。成田先生の強みは脳科学に関する知識が豊富な点である。B4裏表一枚ほどで簡単に読める内容であるが、示唆に富んでいた。この内容を詳しくしたものとして、成田先生は『日本人に相応しい英語教育』(松拍社)という本を出版している。かなり文科省の方針にはかみついているので、痛快な点もある。小学校の英語教育に携わる人は、この様な見方もあるという点で勉強になるだろう。

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「詩の技法とその翻訳ー英語教育の視点から」を発表する。


昨日は、久しぶりに学会(思考と言語研究会)で発表をした。2015年に前任校を定年退職してから、学会発表の機会にあまり恵まれていなかったが、久しぶりに発表となった。やや緊張して時間配分が分からなくなり、時間オーバーになってしまい、慌ててまとめたので、思うことの半分も語ることができなかった。

その点は残念ではあるが、発表のために資料を揃えたり、事前に頭の整理整頓をしたので、自分には勉強になってよかった。

さて、会場の雰囲気は以下の写真の通りである。発表をされているのは佐良木昌先生で「日英翻訳のための和文型の換言方式」というタイトルで発表されていた。

会場の様子(発表者は佐良木先生)

午後の一番からが私の発表だ。タイトルは、「詩の技法とその翻訳ー英語教育の視点から」である。自分の問題提起は、詩の美しさを機械翻訳で伝えることができるか、であった。

詩の美しさは形式と内容の統一にある。内容に関しては翻訳は可能だろう。しかし、形式は翻訳は不可能である。そもそも詩は元来は朗読されるものである。英語詩ならば、強弱の拍や脚韻の響きで聞き手は詩の持つリズムを感じるのだ。このような詩は日本語に直して伝えることは非常に難しい。

朗読された詩だが、文字化されると翻訳可能性が高まるようだ。現代では、詩は読む詩として鑑賞されることも増えた。上田敏の訳詞などを紹介しながら、英米の定型詩は日本語ならば、5音や7音で翻訳することで、定型詩から定型詩への翻訳が可能になる。定型詩を自由詩の形で翻訳するよりも、やはり日本語の訳詞にもある程度の形式的な縛りが必要だろうとの趣旨だ。

そして、英語教育の場においても、学生に英語詩を日本語の詩へと翻訳させる試みは有益であり、それにより学生は日英両語の音声形式や意味の違いを知り、言語の気づきへと結びつく、という趣旨であった。

しかし、自分の発表は話しているうちに、所々詳しく説明しすぎて発表が半分ぐらいのところで、司会の先生から、「あと5分」という掲示を示されて、焦ってしまった。結果としては、自分の発表はまとまりのないものとなったが、今度いつか詳しく論文の形でまとめてみたいと考えている。

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言葉遊び、脚韻、英語教育

音声の教育

英語を子供達に教える場合は、音から教えるべきであるとはよく言われている。英語特有の音に慣れてもらうためには、子音から入るといい。母音は舌の微妙な高さで音が異なってくる。ところが、子音は唇を閉じるか開けるか、舌を口の中のどこに付けるか等と比較的に説明がしやすい。

ただ、単に音を出すだけでは、子どもたちは飽きてしまう。やはりゲームの要素を取り入れるべきだと思う。その意味で、言葉遊びが大切だ。小学生の3,4年生の子どもを対象に考えてみたい。この年代の子どもたちはすでに、しりとり、背中に指で書かれた文字を当てる、など日本語の言葉遊びをして楽しんでいる。英語でも、工夫すれば言葉遊びが可能だ。ただ、文字ではなくて、音声を中心に言葉遊びを行うのが良い。

脚韻に注目させる

音声を中心とした言葉遊びには、(1)早口言葉、(2)英語のだじゃれ、などが考えられるが、小学生に与える音声の遊びとしては難しすぎないようにすべきだ。脚韻をあてさせる問題が面白い。たとえば、up, tick, tip, hip, zip などを聴かせて、「どれが仲間はずれだろうかあてよう」という遊び(クイズ)を出すといい。単語の意味は分からなくても、一つだけは仲間はずれだな、という感覚さえつかめればいい。

大学生ならば音声学上の知識を与えても学生は興味を示す。たとえば、/p/は破裂音なので、唇をしっかりと閉じて爆発させるのに対して、/k/は硬口蓋と舌で閉鎖をつくるので音が異なる、とか、通常の会話の時には、語末の時は閉鎖がしっかりとしてなくて、はっきりと破裂音とは聞こえない、というよう知識である。

小学生ならば、もちろん、そんな知識は不要である。語末が似ているが、一つだけ異なるなという風に感じられればいい。それから、子どもによっては、/I/の音に注意が行き、up を「仲間はずれ」と考えるかもしれないが、それはそれでいい。

母音でも、例えば、/eI/の二重母音なども、pay, say, toy, hey, way などを順番に聴かせて、。toy だけが「オイ」と異なる終わり方をしていると気づかせるのは、音声に対する敏感さを養う上で有益である。

早口言葉

早口言葉 tongue twister も子どもたちは喜ぶ。定番のものとして以下のような早口言葉がある。

She sells seashells by the seashore.

Peter Piper picked a peck of pickled peppers.

あるいは、映画 My Fair Lady でヒギンズ教授がイライザに与えた韻を踏んだ早口言葉などを与えると面白い。The rain in Spain stays mainly in the plain.である。ただ、小学生には、難しいかもしれない。先日、大学生にこの早口言葉を試してみたら、評判は良かった。小学生はどうだろうか。きょとんとされるかもしれない。

日本語の音韻にまだ慣れていない小学生の耳にこそ、このような tongue twister を練習させることは喜ばれるかもしれない。今度機会があれば、小学生に試みてみよう。 

 

幼児に音を意識させること。


子どもに英語の音を聞かせて「繰り返してごらん」と言っても、あまりのらないだろう。そのようなときは、音遊びをすることがよい。音遊びとの一つとして、韻を踏むことの面白さを教えることがいい。

音を聞いて見つけてみよう!仲間はずれはどれかな?

dog/fog/cook
bin/tin/win/can
park/turn/dark/mark
boy/soy/toy/day/joy
mop/drop/cup/crop/stop

この様な問いかけを通して子どもは英語の音の類似性に関心を持つようになると思う。当然、知らない単語がかなりあるが、この音とこの音は何か似ているな、という間隔がつかめればいいのだろう。日本語では、しりとり遊びがある。また「しゃれ」を使っての言葉遊びがある。英語でも、そのようなゲームや遊びを重ねることで、英語の音に関する鋭い感覚が養われる。そしてそれは英詩の理解や、子供用の童謡の理解にもつながる。

英語でも、音声に関する興味を脚韻から入ってゆくことも面白い。絵本なども韻文がいくつかある。それらは脚韻が踏んであるのが普通だ。アリスの不思議な冒険では、次のような言葉が出てくる。

‘How doth the little crocodile
Improve his shining tail,
And pour the waters of the Nile
On every golden scale!

‘How cheerfully he seems to grin,
How neatly spread his claws,
And welcome little fishes in
With gently smiling jaws!’

とくに内容のある文ではないが、言葉遊びの上からは楽しい。この小説が書かれた頃は(1865年)は、物語とは読むものではなくて、語るもの、そこにはナンセンスな言葉ではあるが、要は言葉は楽しく、耳で心地よい文が好まれたようだ。この文は1行目と3行目、2行目と4行目に韻が踏んである。

子どもたちがよく歌うきらきら星の歌も韻がたくさん踏んである。

Twinkle, twinkle, little star,
How I wonder what you are!
Up above the world so high,
Like a diamond in the sky!

When the blazing sun is gone,
When he nothing shines upon,
Then you show your little light,
Twinkle, twinkle, all the night.

Then the traveller in the dark,
Thanks you for your tiny spark,
He could not see which way to go,
If you did not twinkle so.

In the dark blue sky you keep,
And often through my curtains peep,
For you never shut your eye,
Till the sun is in the sky.

As your bright and tiny spark,
Lights the traveller in the dark,
Though I know not what you are,
Twinkle, twinkle,little star.

以下は、Twinkle, twinkle, little star の歌詞である。各連とも1行目と2行目、3行目と4行目は脚韻が踏んである。これらの詩を聴く経験を通して、詩の美しさには内容だけでなくて、形式も完成するという意識が生まれてくる。

ところで、私自身が聴いてみたのでは、自分には各行の脚韻を意識できるほどの英語の語感はない。これは小さいときから、nursery rhyme に数多く親しんでいる英米人の子どもならば、無意識的でも、意識的にも脚韻のもたらすリズム感を聞き取って心地よく感じるのである。日本人の子どもでも、冒頭に示したようなゲームを重なることで、ある程度は rhyme に慣れるようになり、将来、歌や詩を鑑賞するときに役立つだろうと思われる。

『マイ・フエア・レディー』を観る。

ケーブルテレビで『マイ・フエア・レディー』を観た。面白かった。まだ、階級意識が強く存在するイギリスのロンドンの町での話だ。花を売って生計をたてていたイライザ(オードリー・ヘップバーン)をヘンリー・ヒギンズ教授は発音の教育をしてレディーに仕立てるという話だ。これは有名な話なので、内容には特に言及する必要はないだろう。ここでは映画を観て、自分が考えてことをいくつか箇条書きにして述べてみたい。

(1)学生に見せる教材として面白いと考えた。英語の発音によって階級がはっきりと分かれていること、ロンドンの下町のコクニー発音でも細かく分かれていて、ヒギンズ教授は人の発音を聞いて、どこの地域生まれを即座に言い当てることができる知識を持っていること、などを学生に知ってもらうと有意義だと思う。

(2)proper  English を話すことが階級社会を登ることに必要である。これは全世界的にも成立することになってしまった。日本人なまりの日本式英語を話していると、グローバル社会の中では負け犬になってしまう。日本人でもアメリカ英語が話せるならば、若い頃にアメリカに留学して(それだけの資力のある家庭に育ったことの証明になる)、学術を修めたことを意味している。留学できるだけの知力があるならば、頭脳も優れていることを意味する。という風に一般には信じられている(この英語を観るとそんなメッセージを受け取ってしまうかもしれない)。

(3)英語の世界のヒエラルキーを考えるならば、マイフェアレディーが舞台となった19世紀末のイギリスでは、同時に世界的にも、いわゆるイギリス英語(Received Pronunciation)が世界の頂点に君臨していたが、これが今ではアメリカ英語へと移動してしまった。この頃は、カリフォルニアあたりの英語か、ニューヨークの英語が一番権威ある英語となってしまった。そんな話を学生にすれば、英語の世界の威厳あるモデルが、実は変わるものであることを、学生に教えるいい材料になるだろう。

(4)イライザは/h/の音を出すのに苦労していた。コクニーは/h/の音を使わない。それゆえに、ヘンリー・ヒギンズ教授を「インリー・イギンズ」と発音していた。世界的にも/h/を出さない例はよく見られる。フランス語などはその典型だ。

(5)イライザは、/eɪ/と代わりに/aɪ/を発音してしまう。矯正するために、 The rain in Spain stays mainly in the plain. という文をイライザは繰り返して発音して、/eɪ/の音声に慣れてゆく。The rain in Spain stays mainly in the plain. という文は自分のクラスでも学生に発音させたが、その時に、映画『マイ・フエア・レディー』やイライザが発音矯正のためにこの文を何度も繰り返したという話しをすれば学生は興味を引いただろうと思った。

(6)原作者のバーナードショーは、階級差をなくすために、全員がRPを学んで話すようにすべきとの考えであったようだ。だが、コクニーを自己を表現する大切な資産であるという発想はなかったようだ。この英語は明らかに、「社会方言=悪」というメッセージを学生に伝えてしまう。さらには、「World Englishes =悪」というメッセージにまでつながってしまう。この映画は面白くて学生に音声に関する興味を高めさせる点では有益だが、伝えるメッセージをそのまま受け取らないように学生には警告を発しておく必要があるようだ。

『これからの英語教育の話しをしよう』の紹介


ひつじ書房から『これからの英語教育の話をしよう』(1350円+税)という本が出版された。筆者は寺沢拓敬、仲潔、藤原康弘の三氏、さらに座談会には嶋内佐絵、松井孝志の両氏が加わって活発な議論を展開している。私は執筆者の一人から、この本を恵贈していただいたので、感謝の念を表明するとともに、この本を少し紹介したい。

タイトルの「これからの英語教育の話をしよう」だが、何となく親しみの持てるタイトルである。他の研究者ならば、『現代英語教育の抜本的な改革に関する諸提案』というような堅苦しいネーミングを選んだかもしれない。タイトルを親しみやすくして、一般の読者に対して敷居を低くして、入りやすくしている。

次期の英語教育の学習指導要領の試案がすでに発表されている。また、コア・カリキュラムが示されている。これらの学習指導要領を初めとする文科省の説明をクリティカルに読み解いている。そして、それについて対案をも提示している。対案の提示とは大切なことであり、そのことによって、筆者達の言説は言い放しではなくて、責任あるものとなっている。

さて、この本だが、英語教育に関してある程度は興味を持った人を対象にしている。英語教育の問題点をいろいろとあぶり出しているのであるから、まだ初々しい心を持った学生達には強すぎる刺激を与えるかもしれない。高校生で、自分は将来英語を勉強して英語を日本の若者に教えたい、個人的には、アメリカ人のように話して、そしてアメリカ文化を日本人に紹介して、日本とアメリカの橋渡しとなって、国際化時代に貢献したいと考えている人がいると仮定する。

この高校生は、この本を読むことで、英語への初々しい心が毒されるので、毒薬みたいな作用をするかもしれない。しかし、英語へ素朴で初々しい心を持つと言うことは、実は英語帝国主義という毒薬におかされていることなので、この本が解毒剤の働きをするのである。解毒剤を飲んでから、はじめて英語に真に向きあうことができるのである。

そんなことで、まずある程度は英語教育に携わった人、ある程度は現代の英語教育の問題点の存在に気づき始めた人が読むといいのではと思う。

さて、個人的に面白いと思ったのは、CAN-DOリストについて問題点を指摘していることである。現代では、CEFRとCAN-DOリストが手放しで賞賛されていて、様々な教育機関で「バスに乗り遅れるな」とばかりに、導入が積極的に推進されている。ほとんどの論文は推進派の視点からの論文ばかりであり、慎重論の視点からの論文は少ないように感じている。この本では、慎重論の視点からの言及が見られるのが興味深い。今後は、CEFRとCAN-DOリストを日本で導入する時の問題点をもう少し詳説してもらえればと願っている。

 

『英語教育徹底リフレッシュ』が刊行された。

今尾康裕・岡田悠佑・小口一郎・早瀬尚子の4氏が編集をされた『英語教育徹底リフレッシュ: グローバル化と21世紀型の教育』が開拓社から刊行された。大阪大学大学院言語文化研究科は、毎年の夏に公開講座として、「教員のための英語リフレッシュ」を開催している。

その公開講座の講師の方々がこの本の執筆の中心である。私は部外者としての立場からであるが、数回、この公開講座の講師を担当した。その縁で、この『英語教育徹底リフレッシュ』の執筆者の一員として、「言語政策 ー国際比較の観点からー」という小論を寄稿することになった。

その小論は言語政策の国際比較を行っている。骨組みとして、言語政策に関して、東南アジアやヨーロッパという地理的な視点と、植民地時代・独立後の時代・現代という歴史的な視点の両方から言語政策を論じて、現代の日本の言語政策に何らかの提言をしている。

現代はあまりに動きが早すぎる。英語の普及、グローバル化の進展、インターネットや携帯・スマホの普及など、昔は100年かけて時代が動いたことは、今は1年ぐらいで様変わりしてしまう。正直な話、自分は目が回りそうだ。言語政策に関する論文を書く場合でも、できるだけ普遍的な点を中心に述べて、数年で様変わりしそうな部分は避けたいとも考えたが、現代のホットな部分を無視するわけにもいかない。

自分の小論は12ページほどの文字通り小論だが、そんな点を苦労した。あらためて、他の執筆者の方々の論文を読んでみると、普遍的な点は押さえながら現代のホットな事象にも触れているという点で、同じ方向を目指していると思う。できるだけこの本が広く受け入れられることを願う次第である。