異文化の出会いと英語教育:日本の外国教師とフィリピンのトーマサイツの比較研究                                                       1998-02-26

はじめに
嘉永6年(1853年)、ペリー提督率いる4隻のアメリカの蒸気船が浦賀沖に姿を現して以来、日本は鎖国から開国へと大きく揺れ動いた。この幕末から明治期にかけて多くの外国教師が雇われ、日本の教育の開国と近代化に大きな貢献をした。西洋の国々から、海を越えてはるばるアジアの小さな島国へやって来た彼らは、歴史上類を見ないほどの成功をおさめた日本の近代化の立役者となった。時代は下って半世紀ほど後(1898年)、日本の南の島国フィリピンでも、デユーイ提督指揮下のアメリカ極東艦隊がマニラ湾に新たな支配者として乗り込んで以来、フィリピンの教育の開国と近代化が始まった。それはアメリカから送り込まれた1000人ほどの教師達の功績である。彼らは主として輸送艦トーマス号により派遣されたので、一般にトーマサイツと呼ばれている。彼らは短期間の内に、フィリピンを当時のアジアで最も進んだ民主主義の国に変えていった。また英語が急速に普及したのも彼らの働きによる。
極東の二つの島国の教育の近代化は、ともにアメリカの軍艦の渡来を幕開けとして、外国教師の一団の貢献によるという事実は興味深い。外国教師は西洋の格段に進んだ文化の伝達者であり、その時代、外国教師側と学生・生徒側の双方から、異文化コミュニケーションと異文化理解への努力がおこなわれた。そのために、両国とも英語(外国語)教育が重視されたのは当然であった。しかしこの二つの国の近代化への外国教師と英語(外国語)教育の貢献の仕方は、その時代的・地理的な背景の相違から、当然異なる。日本では日本語の地位を脅かすまでは外国語教育は根づかなかった。むしろそれゆえに国の発展がありえたとも言える。ところが、フィリピンではアメリカ文化の取り入れと英語教育が成功した(または成功し過ぎた)ゆえに、長期的には数々の問題を引き起こすという逆説的な現象が生じた。本稿ではこの現象の説明をおこない、望ましい外国語教育の姿を探ろうとするものである。言い換えれば、外国教師と外国語教育の比較研究を通して、過去の実例を見ることで、異文化の交流に有益な教訓を得ようとするものである。
本稿の構成は、はじめに(1)両国の社会・教育の発達状況を述べ、次に(2)
外国教師の実情を述べ、さらに(3)この外国教師がどのような影響を及ぼしたかについて述べ、次に(4)異文化交流が両国の言語観にどのような影響を与えたかについて述べる。そして(5)外国教師と外国語教育がどのような意義を持つか述べるものとする。

1 社会ならびに教育の発達状況
1-1 開国時の日本
黒船という外圧を迎えて、幕府は数々の改革を慌ただしくおこない、特に国外の情報の収集と軍事技術の向上に努めた。安政2年(1855年)には蘭書の翻訳と蘭学の稽古のために洋学所(蕃書調所)が設置された(倉沢 1983:92-139)。軍事の分野では、同年オランダ東インド艦隊所属のペルス・ライケン一等士官を長とする22名の教育班が来日して、長崎海軍伝習が始まった。彼らをもって外国教師の始まりとする(三好 1979:84-93)。それ以来外国教師は次々と、特に軍事と医学の分野で採用されていったが、幕末の混乱期の下で十分な成果が挙がる前に、明治の新体制に移行した。
幕府の西洋の学術を習得しようとする方針は、明治の新政府へと受け継がれてゆく。新政府は国の独立を保つために、富国強兵の基礎を固めることが最大の目標であった。高等教育の場に数多くの外国教師を雇い入れ、とりわけ実用科学の分野に力を入れた。しかし人文科学の分野での雇い入れは、いわゆる和魂洋才の旗印の下で、消極的であった。
なお当時は寺子屋が都会でも農村でも普及しており、一般大衆の教育程度は世界的に見ても高かったと思われる。ちなみに識字率は19世紀中葉において、男48%、女15%ぐらいと考えられており(クルマス 1987:329)、当時の西洋諸国と比較してもさほど遜色はない(1)。また蘭学研究は、明和8年(1771年)の『解体新書』の翻訳の開始以来、当時すでに百年ほどの伝統があり、西洋に関するある程度の知識の蓄えはあった。その意味では西洋の学術を受け入れる下地はかなり育っていたと言えよう。

1-2 当時のフィリピンの教育
フィリピンはスペインの統治を3世紀にわたって受けた。教育については、カトリックの教団が神学の研究を主体にした教育研究機関を17世紀初頭から設立しており、1601年にサン・ホセ大学、1611年にはサント・トマス大学が創立された。これらはアジアで最も古い大学となった。植民地政府は教育を支配層であるスペイン人やメスティゾ(混血児)にのみ限定し、彼らを植民地機構で働く有能な官僚として養成するために、主に高等教育を整備していった。
後に、初等教育に関しては、1863月に本国スペイン政府は教育令を布告し、7才から12才までの児童は教育が義務づけられるようになった。各町村に少なくとも、一校ずつ男子と女子の小学校が設立されることになり、同時にフィリピン人の入学も認められることになった。しかしこの国民教育制度は財政難のために、なかなか進展しなかった。1896年の時点でフィリピン全土に2167の小学校が存在したが(Lardizabal 1991:39)、カリキュラムはカトリックの教義の暗唱を中心としてスペイン語での読み書きといった児童にとっては退屈な内容であり、退学率も高くほとんど教育的な効果は挙がらなかった。幕末の日本と比較して明らかに教育の水準は低かった。
このような教育の停滞を打破するきっかけとなったのは、1898年に勃発した米西戦争であった。デユーイ提督指揮下の米艦隊はマニラ湾にてスペイン艦隊を壊滅させ、アメリカによるフィリピンの植民地化が開始された。当初フィリピンはアメリカ占領軍に対して独立を求めて激しい抵抗を試みたが、圧倒的なアメリカの軍事力に破れ、1901年アメリカ大統領ルーズベルトはフィリピンの平定完了を宣言する。アメリカは民心の懐柔政策の一環として、初等教育の普及をはかり、1000人近いアメリカ人教師を派遣した。ここにフィリピン教育の近代化がはじまった。

2 外国教師の実情
2-1 外国教師の選択
明治政府は、質の高い外国教師の雇い入れに苦慮した。西洋の学術を取り入れようと諸学校では盛んに外国教師を雇用したが、彼らは必ずしも教師としての学識を備えた人ばかりではなかった。明治の初頭は、外国教師の採用の経験も乏しく、横浜あたりにいる外国人をただ英語が話せるというだけで、高給を払って採用することも多かった。これらの教師の前歴は、商店員、水夫、ビール醸造業者、サーカスの道化役者、屠殺場の従業員であり、在留外国人の間で、開成学校が「無宿者の収容所」と呼ばれていたりしたと言う(川澄編 1978:11)。
この状況は東京開成学校と東京医学校の合併で東京大学となるころから変わり始める。外国人教師に対する質的要望が高まってきて、専門的な学識を持った外国教師を確保しようとすると、在留外国人だけでは間に合わなくなってきた。明治11年(1878年)にハーバード大学よりフェノロサを招聘した頃から、本国から優秀な人材を招こうとの方針に移行していった(川澄編1978:12)。
その場合、外国教師の雇い入れには外交ルートと個人ルートの二つの経路があった。外交ルートは日本駐在の外交官や在外勤務の日本人外交官が介在する場合であり、個人ルートはすでに雇い入れた外国教師や海外の親日家に斡旋を依頼する場合である(三好 1986:286)。選択の主導権はあくまでも政府が握っており、教師として不適当と判断された時や、その分野の学術が十分に日本人教師で教授できるようになったと見なされたときは、彼らは情け容赦なく解雇された。
日本政府は各分野での学術の最も進歩した国を慎重に見定めて、その国から教師を採用することに心がけた。当時の欧米諸国の得意な分野は、岩倉具綱による「海外留学生規則案」によれば、農学はアメリカ、医学はドイツとオランダ、商学はベルギーとアメリカ、法学はフランス、工学はイギリスと格付けがされており、これらの国から教師が選ばれる傾向があった(三好 1986:77)。全体としてはドイツ、イギリス、アメリカ、フランスからの教師が多い。また中山(1978:44)によれば、一国とだけ特別の関係を結ぶと、植民地支配へとつながる恐れがあるので、さまざまな国から外国人教師を雇い入れて勢力の均衡を図ろう、との明治政府の意志も働いていたという。
これに対して、フィリピンでは、さまざまな国から教師を招聘して勢力均衡を図るというような芸当は当然ながら不可能であった。アメリカ人教師の選択しかあり得なかった。しかもその選択権はアメリカから派遣された植民地政府(フィリピン委員会)にあった。同委員会の教育総監 F.W.アトキンソンがアメリカ人教師の任命者となったが、実際は信用のおける本国の師範学校や大学の学長に適切な人物の推薦を依頼した。例えば、カリフォルニア州ではチーコウ州立師範学校、サン・ディゴウ州立師範学校、スタンフォード大学、カリフォルニア大学の学長達に連絡をとった。アイオワ州では州教育総監、州立師範学校やアイオワ大学の学長というコネを頼って推薦を依頼した(Lardizabal 1991:6)。そのために植民地であるがゆえに仕方のないことではあるが、フィリピン側からの選択権はなかった。高慢で現地人を見下した教師がいたとしても、甘んじて受け入れるか、授業をボイコットして解雇を要求するしかなかった。有名な事件として、1930年にマニラ・ハイスクールのアメリカ人教師メイベル・ブランミットがフィリピン人を「バナナ食いの猿のようなものだ」と侮辱的発言をしたことから、フィリピン人学生たちは一斉に同盟休校に入ったことがあった(Sturtevant 1976:218)。

2-2 外国教師の人数と活躍した期間
このようにして選ばれた外国教師ではあるが、両国とも彼らに恒常的に依存するつもりは毛頭なく、共に自国人による教師が育つまでの間の暫定的措置と考えられていた。
日本では、その人数は官傭外国人に限ってであるが、明治6年(1873年)から8年(1875年)にかけて年間500名を越えてピークをなしたが、明治12年(1879年)以降から減少が目立つようになった(三好 1986:53)。明治15年(1882年)の文部省「官費海外留学生規則」には、優秀な大学卒業生を留学させて、帰国後御雇い外国人に代わって大学で教える、という方針がはっきり記されている。三好伸浩によれば、日本教育の近代化を計るという外国教師雇用政策の所期の目的は、すでに明治20年(1887年)ごろには達成されたとしており(三好 1986:258)、その頃までには外国教師の必要性はほとんど無くなったようである。明治35年(1902年)ベルツの第一回日本医学大会の開会式でのスピーチでは、開国以来の日本の発展を讃え、「今や日本の医学界はもはや外人教師を必要としない有り様になった次第であります」と述べ、この頃になると外国教師までもそのことを認めている(トク・ベルツ編 1979:上258)。
一方、フィリピンでは、1901年8月23日に509人のアメリカ人教師が陸軍の輸送艦トーマス号でマニラに到着する。彼らは、二十歳代前半の若い男性と、それより若干年上の女性から構成されていた。彼らの学歴は高く、カリフォルニア大学、ミシガン大学、ハーバード大学、イエール大学といったそうそうたるエリート校出身者が数多く見られた(Lardizabal 1991:144-8)。その内訳は男368名、女141名である。彼らは輸送艦の名にちなんで、トーマサイツと呼ばれたが、その後次々と到着するアメリカ人教師もトーマサイツの名で総称されるようになった。なおトーマサイツ達の約3割は女性で占めているが、日本のお雇い外国教師はごく少数の女学校の教師を除けば、男性であることと対照的である。
アメリカ人教師の数は、1901年に889名、翌年に928名というピークに達した。それから徐々に減り 1916年には 467名になっている(Lardizabal 1991:65)。その後の数については資料が手元にないが、おそらく漸減していったと思われる。同時にフィリピン人教師をできるだけ早急に育成する政策がとられた。 早くもフィリピン平定の年(1901年)にマニラに師範学校が開設されて、その卒業生は順次アメリカ人教師に置き換わってゆく。それにつれ、アメリカ人教師は地方の視学官や教育総監といった管理的な職務へと配置転換されていった。日本では、日本人教師の台頭は外国教師の解雇を意味したが、フィリピンでは管理職への転勤を意味した。フィリピンの自治が拡大された後も、教育に関する管理職はアメリカ人が多数を占め、特に公教育省の教育監督官 superintendent と英語指導主事
supervisor of English は必ずアメリカ人が占めた。
2-3 外国教師の渡来の動機
外国教師が日本に働きにきた理由は様々であろう。ベルツは日記の冒頭で「知識欲に燃える国民の間に、西洋の文化を広め、深めることに、自分の持ち分において協力することは天職であるからだ」(トク・ベルツ編 1979:上34)と述べているように、そこには強い使命感が見られる。またモースは「私が最初日本を訪れた目的は、単に日本の近海に産する腕足類の各種を研究するだけだった」(モース 1971:19)と日記に書いているが、このように研究心・好奇心ゆえに日本に来た例もある。
しかし日本に来た外国教師の多くは、高い給与に惹かれてやってきたのが本音であろう。フェノロサは、給料の半分は貯金できるというモースの勧めで来日を決意しており、画家フォンタネージは、90%以上は給料が魅力的なので来日したと述べている(三好 1986:48-9)。明治11年のフェノロサの給料は月300円、大学南校フルベッキは月俸600円であった。また明治6年8月時点で、文部省雇いの外国教師の平均年齢は32.7歳であり、月給の平均は271円であった。伊藤博文ら参議の給料が500円であり、当時の日本の小学校教師の月給が10円前後であったことからみて、彼らは破格の待遇を受けていたことになる(三好 1986:48-57)(2)。彼らは日本の小学校教師の30倍弱の給与を得ていたのである。さらには往復の旅費を支給され、天皇謁見、特別褒賞、叙勲の機会が与えられた。
これに対して、フィリピンに来たアメリカ人教師たちは、非金銭的な理由が中心のようである。ラルデザバルがトーマサイツ達に、フィリピンへ教えに来た動機を尋ねるアンケート調査をおこなった(Lardizabal 1991:15)。回答者は53人で、動機を多い順に挙げれば(1)フィリピンの教育に何か貢献したかったから、(2)駐留している軍人の夫・婚約者と一緒に住むため、(3)旅行がしたかったから、(4)何か仕事をする必要があったから、(5)チャンスを見つけたかったから、(6)冒険心から、との順番であった。金銭的な目的との回答は、アンケートに本心から答えたかどうかは別として、とりあえず見あたらない。
彼らアメリカ人教師の給与は、フィリピン委員会の定めた法令74条により、月75$~125$と定められていた。当時の米国マサチューセッツ州での20代前半の小学校教師の月給は、男性教師が平均137$、女性教師が51$であった(Lardizabal
1991:5)。このことから見て、フィリピンで教えるということは、アメリカ人教師にとって、格別金銭的に魅力ある職業ではなかった。旅費もフィリピンへの往路しか支給されず、3年以上勤務してはじめて帰路の旅費も支給される条件であった。なお1905年当時のフィリピン人の小学校教師の給与は月10$前後であったので(Lardizabal 1991:39;117)、フィリピン人教師の給与と比較すれば、トーマサイツ達は10倍前後の給与を得ていたことになる。しかし日本における外国教師が、日本人の小学校教師の30倍弱の給与を得ていたことから判断すれば、さほど高額とも思われない。
またアメリカ人教師が、貧しいがゆえに勉学を断念しかけた優秀な子供達に、身銭を切って援助をした例が数多く報告されている(Lardizabal 1991:59)。子供達を自宅に住まわせ、食事を与え、学校へ行かせた。またマニラでの師範学校の開設に際しては、才能あるフィリピン人生徒に資金援助して入学させた例が記されている(Lardizabal 1991:115)。アメリカ人教師とフィリピンの子供達とのこのような深い個人的なつながりは、アメリカ人の理想主義的傾向を示している。
このような事例は日本では一般的であったかどうか分からない。モースの日記の中に、加賀から来た青年の手紙が紹介されている。青年は週に3、4時間の個人教授と食事と宿舎を提供してくれれば、自分は半ば召使い、半ば学生の身分になることを申し出ている(モース 1971:1.195-198)。モースが彼の提案を受け入れたかどうかは不明であり、また同様な提案が数多くあったかも分からない。ただ全面的に財政援助するというまでの学生との深い関わりは、日本における外国教師の間では稀であったと思われる。

2-4 外国教師の直面した衛生と治安の状態
三好信好は、外国教師は「志半ばにして異郷の地で急死した者が多い」として、モレル(肺結核で病没)等の例を挙げている(三好 1986:69)。同様にフィリピンでも、1901年にトーマス号で到着した509名のトーマサイツ達の中で、19名が病没したことが記されている(Lardizabal 1991:23)。ともに慣れない異国の地では体をこわす者がいたとしても不思議ではない。
しかし外国教師にとって、どちらが劣悪な環境であったかと考えると、熱帯のフィリピンがはるかに過酷であったと思われる。当時のフィリピンは「衛生状態はまことに嘆かわしい状態であった。水はマニラ市内でさえ飲むのに危険であった。市民の飲み水を取るマリキナ川は水浴をする人々や洗濯をする人々のために汚染されていた。ごみを収集する制度はまだ確立されてなかった」(Lardizabal 1991:21)とある。また、「一般の大衆の貧困さは目を覆うばかりであり、何処でもそれは見られた」(Lardizabal 1991:24)という経済状態であった。
ところでモースの日記には、日本の都市が清潔で衛生状態が良好であると、いたる所で記述されている。火葬場の記述では「掃き清めた地面、きちんとした垣根、どこででも見受ける数本の美しい樹」(モース 1971:3.149)とあり、日本のスラム街も自国と比較して清潔との印象を持ち(モース 1971:3.180)、海岸の町が「簡素な住宅が並んでいるが、清潔で品がよい」(モース 1971:1.180)との描写がある。温帯にあり、気候も比較的母国と似ていて衛生的な日本が、外国教師にとってははるかに住みやすかったと思われる。
フィリピンは、当時アメリカ占領軍への抵抗が終結したばかりであり、地方では治安はまだ万全とは言えなかった。そんな地域にも、トーマサイツ達は送られ、黙々と自己の任務を果たした。中には山賊に襲われて命を亡くす者もいた。一方、日本では、モースが日記の中で、治安の良さに繰り返し驚いている事実が示すように、治安の面でも、外国教師にとって日本はフィリピンと比べて、格段に住みやすかったと思われる。
このようにフィリピンへ赴いたアメリカ人教師の一般像として、高いとは言えない給与の下で、劣悪な環境の中で、身銭を切ってまで、懸命に子供達に貢献している姿が浮かび上がってくる。

3 外国教師の影響

3-1 影響を及ぼした階級
日本ではお雇い外国教師は、主に大都市の高等教育の場で教えた。学生たちは富裕な階層の子弟であり、彼らは卒業後は社会のエリートとなっていった。外国教師は為政者への政策形成にも、助言という形で影響を与えた。また有名人として社交の場にも参加した。またベルツのように医学を教えながら、有能な医者として、皇族や貴族の診察をおこなっている。このように外国教師は、日本社会の上層部への影響が大であり、一般大衆には間接的な形での影響に留まった。
一方、トーマサイツ達は、フィリピン全土にくまなく配置された。1902年時点で勤務地の判明している824名の内、マニラ市内に送られた者は一割以下の75名であり、残りは地方へ勤務した。中にはボントック地方のような首狩り族の住む山奥へ派遣された者もいる(Lardizabal 1991:52)。彼らは一般大衆の中に入り込み、地方の町や村での唯一のアメリカ人であることが多かった。彼らはアメリカ式の男女平等、人種の平等、市民権、勤労、時間厳守、衛生等の概念を教え広め、町や村の政治に数々の助言を与えた。
影響の一例として、次のような例が挙げられる。現在のフィリピン英語では、Tomorrow you should come here on American time.(明日は君はアメリカ式の時間で来なければなりません)という表現があるが、この場合の「アメリカ式の時間」とは、きちんと時間通りに来ることである。当初フィリピンの子供達は学校での遅刻・早退は何ら違反行為とは思っていなかった。アメリカ人教師が時間厳守の習慣を教え込むことにより、子供達の態度も変わっていった。American
time との表現はそのことの名残である。
トーマサイツは6~10歳の児童に教えたために、その影響は全人格的で生涯にわたり持続した。このようにアメリカ人教師は、一般大衆を含めて社会全体に影響を与えた。その意味で日本の御雇い外国教師の影響よりも広範囲にわたったと言えよう。

3-2 肉体労働への態度
フィリピン人は伝統的に農業や工業のように自らの体を使う職業を軽蔑し、教育とはそのような卑しい職業から抜け出るための手段とみなされていた。農業や工業が学問としてなかなか育たなかった。教育の場では長らく実用技術が軽視され、学生も実学には関心を示さなかった。当時の大学でも、実学重視のサント・トマス大学やアテニオ大学(機械学、実用数学、簿記、商業通信文を中心に教える)は不人気であるのに対し、書物中心のカリキュラムを組む(ラテン文法、基礎ギリシア語、キリスト教義を中心に教える)サン・ホセ大学には応募者が殺到した(Lardizabal 1991:38)。
そんなフィリピン人に、アメリカ人教師の労働への態度はカルチャー・ショックを与えた。アメリカ人は伝統的に自らの手足を動かすことが好きである。アメリカ人の知事が家族を連れてレイテ島に赴任してきた時、自分の子供を両手で抱えてきたので、大変な驚きを引き起こしたという。フィリピンならば、それは召使いの仕事であるからである(Lardizabal 1991:46)。
トーマサイツの一人が述べている逸話では(Lardizabal 1991:46)、園芸学の授業には、上流階級の子供達は必ず召使いを連れてきて、土いじりになると、召使い達が子供の代わりに鋤や鍬を持ったので、アメリカ人教師達は呆れたという。また当時のフィリピン人教師は、自分の教科書や鞄を、教室から教室への移動の際は、どんなに軽くても助手に運ばせていたという。
このような価値感や態度は徐々に改められ、やがてはアメリカ人教師が黒板を拭いたり、ベンチや机を移動したり、本を運ぶときには、子供達が進んで手伝うようになってきた(Lardizabal 1991:69)。肉体労働への蔑視がスペイン時代と比べて多少なりとも弱まったのは、アメリカ人教師が良い手本を示したことによる。

3-3 言語への影響
3ー3ー1 日本での影響
日本の御雇い外国教師は自国語で授業をおこなった。モースは英語で、ベルツはドイツ語で授業をおこなった。授業を聞き取るために、外国語の能力は学生にとって不可欠であった。しかしそれは学校という限られた空間で使われる言語であり、一般に普及してゆくことはなかった。もちろん外来語として日本語の語彙の中に取り入れられもしたが、日本人の言語生活に根本的変化を引き起こすまでには至らなかった。しかも外国教師が徐々に日本人教師に置き換わるにつれ、学生の外国語に接する機会は減り、理解が困難になっていった。
ベルツの明治9年(1876年)6月26日の『日記』の中で、「着いてから5日で、すぐ生理学の講義を始めましたが、学生たちの素質はすこぶる良いようです。講義はドイツ語でやりますが、学生自身はよくドイツ語がわかるので、通訳は実際のところ単に助手の役目をするだけです(トク・ベルツ編 1979:上.43)」と記している。この頃は学生の外国語能力が高いことが窺える。明治10年代から留学生がぞくぞく帰国して、彼らもまた大学の教壇に立つようになった。これらの留学帰りの日本人教師も外国語で授業していたという。ただあまり流暢ではなくて、学生をかえって混乱させたりしていたが、政府は明治14年頃から、日本人は大学では一貫して日本語によって教授するように指示している(中山 1978:59)。そして日本人教師が増え、教室で日本語が幅を利かすようになると、学生の外国語能力は確実に低下してくる。ベルツは明治34年の日記の中では、「学生はますますドイツ語がよく分からなくなるばかりだから、授業も以前ほどはもう楽しくない。できることなら、すぐ辞職したい(トク・ベルツ編 1979:上.232)」と不満を洩らしている。逆説的に言えば、外国語の能力の低下は、その国の学術の自立を計るメルクマールになる。

3ー3ー2 フィリピンでの影響
アメリカ政府は、当初から無料の普通教育を行うことを決めていたが、授業の言語を現地語にするか英語にするか迷っていた。調査団の報告等により、教育は英語でおこなうことが最終的に定まった。この決定により、フィリピン児童にとって、学校とはまず英語を学ぶ場所であるとの意味を持つようになった。当初はアメリカ人兵士が教師の任を努めたが、やがて全土に1000名ほどのアメリカ人教師が派遣され、フィリピンの児童達に英語を教え始めた。学校の隅々まで英語の音声が聞かれるようになった。やがてアメリカ人教師が去り、フィリピン人教師に代わっても、教室では相変わらず英語が授業の言語として使われていった(3)。
教室の英語は学校の外へと広まってゆき、やがてはフィリピンの日常生活に欠かせない言語となった。1904年のフィリピン委員会の報告では、アメリカの統治わずか5年にして、すでに英語がスペイン語よりも盛んに使われていると述べられている(Bernabe 1987:41)。1918年の国勢調査によれば、10歳以上の人口の314万人中、男性の30%、女性の17%が英語を話す能力があると報告されている
(Gonzalez 1980:27)。さらに1939年の国勢調査によれば、1600万人の総人口のうち、426万人(26.6%)が英語を話せると報告されている(Gonzalez 1980:27)。アメリカ統治後40年ほどで、四人に一人が英語を話せるようになったが、日本では到底望み得ない普及率であった。

4 異文化交流と言語観
両国とも異文化との出会いは自国の文化や言語への反省あるいは見直しへの契機となった。ここでは主に、日本における書記法の改革運動と、フィリピンにおける太古の文化伝統の再発見と再評価の試みについて述べる。

4-1 日本の言語改革の運動
外国語に接するにつれて、日本の後進性の一因として、日本語という「不完全な」言語を使用していることにあると考える人々が出てきた。その考えを大別するならば、日本語を改善しよう、特に日本語の書記法を変えようとする意見と、日本語そのものを廃止して英語に代えようとする意見の二つに分けられる。
日本語の表記法は、西洋の言語と比較して覚える文字が多すぎるとの批判が繰り返しおこなわれた。まず漢字を廃止しカタカナにすべきとの意見が現れる。『資料日本英学史2』(川澄編 1978:18-19)によれば、日本の近代郵便制度の創始者として有名な前島密は、早くも慶応2年(1866年)、将軍徳川慶喜に「漢字御廃止之議」を呈して、国民に教育を普及するには、なるべく簡易な文字文章を用いなければならない、そのためには漢字を廃止して、「西洋諸国の如く音符号(仮名文字)を用いて」教育をおこなうべきと建言している。さらに彼は明治6年(1873年)に、「学制御施行ニ先ダチ国字改良相成度卑見内申書」を右大臣岩倉具視と文部卿大木喬任に提出して、「其音符字(仮名字)ヲ用テスルニ在ルベシ」と主張している。
漢字を廃止してひらがなを用いるべきとの意見も現れる。『資料日本英学史2』(川澄編 1978:20)によれば、明治7年(1874年)に清水卯三郎は、『明六雑誌』第7号に「平仮名ノ説」を発表している。その内容は、漢字廃止には賛成だが、カタカナよりもひらがなを知っている者の数の方が天下に多いので、むしろひらがなを用いて日本語を書くべき、と主張していた。
さらには、カタカナ、ひらがなのどちらにも組みせずローマ字使用を唱える人も多かった。同じく『資料日本英学史2』(川澄編 1978:19ー20)によれば、西周は明治7年(1874年)の『明六雑誌』第1号の「洋字ヲ以テ国語ヲ書スルノ論」で日本語の表記にローマ字を使用することを提案している。また明治15年(1882年)には矢田部良吉が『東洋学芸雑誌』の第7、8号に「羅馬字ヲ以テ日本語ヲ綴ルノ説」を発表している。それは「日本ノ文字ハ此ノ如ク難キヲ以テ、其学生ハ貴重ナル時日ヲ空シク、読書綴文ニ費シテ、実地ノ学識ヲ得ル甚遅シ 」ので、ローマ字の普及を図るべきとしている。
これらは主に書記法の改善を図ろうとの意見であったが、日本語を廃止して、いっそのこと英語を国語にしようとの意見までも現れるようになった。代表的な論者として森有礼がいる。『日本英学史資料2』(川澄編 1978:22)によれば、森有礼は明治5年(1872年)5月21日にエール大学のホイットニィー教授に書状を送り、「英語を日本の国語として採用する必要がある」という自分の意見を披露している。さらに明治6年(1873年)に森有礼は Education in Japan をニューヨークで刊行するが、そこでも再び、日本語の廃止と英語の採用を唱えている。
開国以来、国語問題に対して、様々な意見が現れ百花繚乱のあり様であった。日本人が次第に自信をつけてくるに従い、英語を国語としてまでも、日本の近代化を図ろうとする極端な意見は明治の20年頃から後は姿を消す。歴史的に見れば、一国の言語を廃止して外国語に置き換えた例は稀であるが、全く新しい表記法を取り入れ定着させた例は、トルコ、マレーシア、インドネシアにおけるアルファベットの採用のように数多くある。そのことから判断して、おそらく明治期には漢字の廃止のような書記法の改革は、ある程度は実現可能であったろうが、中期以後はその改革の可能性も減ってゆく。
自国の古来の文化伝統に強い愛着を示し、自国語を神聖なものと見なし、いかなる言語改革も拒もうとする人々も、この国語論争に参加した。例えば、『日本英学史資料2』(川澄編 1978:74)によると、黒川真頼は明治8年(1875年)に 雑誌『洋々社談』第2号の中で、「皇国ノ言語ヲ西洋ノ言語ニ改メ文字モ亦西洋ノ文字ニ革ムルトキハ彼是相通シテ便利ヨシトイフ説アリ然レドモ言語ハ鎔造ルセシ高皇産霊神神皇産霊神ノ作リテ与ヘシモノナレバ人ノ所為ニテハ更フルコト能ハス」と述べている。西洋の学術の導入が順調に進むにつれて、このような日本語を神格化する思想が、次第に勢いを増し、1945年までの言語観の基調となっていった。フィリピンでも次節に述べるように、自国の文化と言語に誇りを持とうとする運動も起こったが、日本ほど恒常的に強い影響力は持たなかった。

4-2 フィリピンの文化と言語の発見
フィリピンは、1565年にレガスピがセブ島に上陸して以来、スペインの支配を受けるようになった。スペイン語は政府機関の言語として使用されたために、フィリピン人の上流階級にはある程度広まっていった。本国政府はスペイン語の普及に熱心で、例えば1634年にスペイン国王フィリペ二世は、フィリピン島の現地人全員にスペイン語を教えるようにと勅令を出している(Blair and Robertson, 1907:45.184)。しかし中南米諸国のように住民の大半がスペイン語を話すまでには広まらず、せいぜい人口の3%程度がスペイン語を話すに留まり、一般住民の大多数はフィリピン諸語を話していた。
スペイン語という異質の言語に触れて住民がどのような言語観を示したか資料は残っていない。住民の側からのはっきりとした言語観が示されてくるのは19世紀後半のプロパガンダ運動まで待たなければならなかった。19世紀中頃から現地人やメスティゾ(混血児)の裕福な家庭の子弟の間から、ヨーロッパに留学する者が若干現れてきた。自由主義の理念に影響された彼らは、民族的な自覚を高め、プロパガンダ運動を起こし、政治改革を求めるようになった。
当時は統一的なフィリピンとの概念は存在せず、タガログ族、ビザヤ族、イロカノ族等の各部族の民族意識が存在するだけであった。スペインによる圧制に苦しんでいたフィリピン人たちは、団結して支配に対抗するために、まず全土を統一するフィリピンとの概念を生み出さなければならなかった。統一的な民族意識を持つためには、過去の文化伝統が発見され、解釈され、再評価されなければならなかった。
ところでフィリピンと比較して、日本では膨大な文学・歴史の遺産が残っているので、読み手しだいで、日本文化が偉大で唯一であることを「発見」したり、あるいは日本文化が猥雑で他文化の模倣に過ぎないと「発見」することも可能であった。ともかく読み手の解釈しだいで、いかようにも料理できるだけの多様な書物・史跡・芸術品という材料が残っていた。しかしフィリピンではこの材料が絶対的に不足していた。マレーシアでのマラッカ王国やインドネシアでのシュリーヴィジャヤ王国のように絢爛たる文化を生んだ偉大な王国は、フィリピンには存在しなかった。16世紀以前に人々の間に流布していた僅かの文献も、スペイン当局により、異端の書として徹底的・組織的に破壊された。このため、フィリピン人が民族の過去の栄光を発見しようとするならば、他民族によって書かれた文献に頼らざるを得なかった。
1609年にメキシコで刊行されたモルガの『フィリピン諸島誌』の記述はフィリピン人にとり、きわめて自尊心をくすぐる内容であった。「その住民は男も女も、特に有力者たちは体も衣服も非常に清潔で身ぎれいにしており、立派な風采で気品がある」(モルガ 1966:305)とあり、「マニラの種族はタガロ(タガロク)族と呼ばれるが、彼らの言語は非常に豊かな言語であり、彼らは言いたいことは何でも、多くの表現方法で上品に表現する。この言語は覚えるのも難しくないし発音も難しくない.....全諸島を通じて、原住民は、ほとんどギリシア文字かアラビア文字に似た字で、非常に立派に字を書く....原住民のほとんどは、男も女もこの言語で書くことができ、うまくしかも適切に書けない者は極く僅かしかいない」(モルガ 1966:337)と彼らの生活や言語を高く評価している。そこでは、スペイン人の到来以前のフィリピンは豊かで固有な文化を持ち、人々は美しい言語を語り、読み書き能力は広くゆき渡っていたとしている。
池端(1994:308)によれば、近代的な国家概念をフィリピン人が所有するきっかけになったのは、思想家ホセ・リサールによる影響であるという。ホセ・リサールは『フィリピン諸島誌』の注釈にエネルギーを注ぎ、スペイン人到来以前のフィリピンは「人々は高い教養の持ち主で、完全に満ち足りた幸福の状態」で「美しい言語を話していた」ことを「発見」した(4)。彼はスペイン支配を打破する論理として、フィリピン文化と言語の持つ独自性・唯一性を強調して、統一したフィリピンとの概念を生み出した。このスペイン支配・スペイン語への対抗の論理は、フィリピンの知識人にたちどころに共有されてゆき、独立運動へと発展していった。この「太古の至福状態とタガログ語の美しさ」との論理は、順調に発展すれば、新しいフィリピン文化の基礎となり得たかもしれなかったが、次のアメリカ支配の時代には、圧倒的なアメリカ文化の前にしばし沈黙せざるを得なかった。

4-3 アメリカ時代の言語観
米西戦争に勝利し、フィリピン全土の保有の見通しのついた1898年12月21日、アメリカのマッキンリィー大統領は友愛的同化宣言 (Benevolent Assimilation Proclamation)を発して、フィリピン保有の説明をおこなった。その中で、アメリカのフィリピン統治は利己的目的ではなくて、住民の発展・開化・教育をめざし、自治の訓練を与えるためであると述べている。アメリカは従来の西洋諸国とは異なる植民地支配を試みたが、その特徴の一つとして、教育にはスペイン時代とは比べものにならないほどの力を注いだ。
当時の植民地の宗主国は、一般的に教育は植民地の住民に任せ、支配当局は教育には干渉しない傾向があった。アメリカの住民の教育に直接関与して、さらには教師を大量に派遣するという方針は、イギリスやオランダの植民地と比べてかなり異例であった。当時のアメリカの「未開」の民族への使命観が見られうる。なお当時のアジアの国の就学率を見るならば、ビルマでは3.3%(1900年)、インドネシアでは1%(1907年)、フィリピンでは7%(1907年)であった(May 1984:123)。アメリカの統治わずか数年にして、フィリピンは他植民地と比較して高い数値を示していた。
当時のフィリピン人の英語に対する態度は、アメリカ側からの資料に基づいてではあるが、英語習得に非常に熱心であったことを窺い知ることができる。1899年にコーネル大学総長シャーマン博士を委員長とする第一次フィリピン委員会が米国から到着して、その任務の一つとして、初等教育を創始するためにフィリピンの教育状況の調査研究をおこなった。同委員会は公聴会を数多く開いたが、その結果、住民は英語教育を切望していると報告している(Bernabe 1987:27)。また1900年に、初等教育創立の任を受けたトッド大尉も、住民は英語を学ぶことに熱心であると報告している(Bernabe 1987:25)。さらに1901年に教育総監(General Superintendent of Education)になったフレッド・アトキンソンは教育条件の整備のための調査を始めた。アトキンソンは当初は民族語を用いる教育を意図していたが、最終的には住民は英語の習得を望んでいるとの結論に達している(May 1984:83)。1906年には商業兼警察長官のフォービスは「フィリピン人は英語の習得に熱狂的であり、地方を旅行しても、スペイン語よりも英語のほうがよく聞かれる」と述べている(Salamance 1984:72)。
スペイン統治の末期に芽生えた自らの言語への誇りは、英語への渇望に置き換えられたようである。このように英語に対する肯定的態度の理由として、トーマサイツ達の献身的な教育があったこと、スペイン時代と比較して寛大なアメリカの植民地政策ゆえに住民がアメリカそして英語に好意を持ったこと、フィリピン人の官吏登用制度により英語が立身出世につながったこと、が挙げられよう。ホセ・リサールの「発見」は圧倒的なアメリカ文化のもとで、しばし忘れられたように見えた(5)。
むしろアメリカ人の中から、民族語での教育を唱える人が現れ、その影響が広まったとの印象を受ける。1924年に米人のサレイビー博士は、「大衆に基盤を置かない言語は民主主義に相応しくない...フィリピン人の母国は母国語を通してのみ再生が可能である」と民族語での教育を力説していた(Gonzalez 1980:35)。さらには1931年に副総督であり同時に公教育長官であるジョージ・ビュートが初等教育での民族語の使用を主張する演説をおこなった。その内容は「授業に用いる言語は9つある主要な民族語の中から、各々の小学校で最も適切な民族語を、授業に用いるべきである」と提案をおこなった(Gonzalez 1980:36)。
これらに対して、フィリピン側からは、かえって英語教育の擁護の意見が出されているように感じる。1936年にマニュエル・カリオンは前述のビュートの民族語使用の演説に触れながら「わが国では言語や方言が無数にあるので、教育の場では、やはり一つの共通語を選ぶ必要がある」と英語教育の必要性を力説している(Frei 1959:61)。
しかし、最終的には、フィリピン独立の動きが進むにつれて、民族語を認めてゆこうとの動きが徐々に強まっていった。1935年にフィリピンは自治領となり、ケソンが大統領に選ばれ、憲法が制定されることになった。憲法制定の過程の中で、公用語は英語ならびにスペイン語(スペイン語で書かれた法律のいくつかがまだ有効で残っているため)と決まり、国語(6)はフィリピンの諸語の中から選ばれることになった。しかし具体的に国語としてどの言語を選ぶか、各民族の感情的な対立もあり、なかなか定まらなかった。最終的には、専門の言語機関を創立し(後の国語研究所 the National Language Institute)、そこで有力な民族語を調査研究した上で、これらの民族語を融合した新言語を作り出すことになった。しかし首都圏で話されるタガログ語が、各地に徐々に広まり、実際上は人々の間で国語と意識されるようになりつつある。公用語の分野で民族語が認められるのは1942年まで、教育の場では1957年まで待たなければならなかった。

5.外国教師と外国語教育の意義
5-1 外国教師の意義
5ー1ー1 日本
日本では、外圧の下で、国の独立を保つために、他に選択の余地のない緊迫した状態の下で西洋の学術の導入が行われた。近代化を一日でも早く進め、富国強国政策を促進しようとの明白な目標の下で、高等教育機関へ数多くの優秀な外国教師を雇い入れた。日本はすでに識字率も比較的高く、国民各層の教育基盤がある程度確立しており、西洋の学術の取り入れは順調に進んだ。
また学生たちは二十歳前後であり、すでに日本人としての自覚を確立した年齢であり、外国教師と接しても、教えられた内容の取捨選択が可能であった。その意味で主体的に外国教師の影響を取り入れたと言えよう。やがて西洋の学術の移植が済むと、お雇い外国教師は、功績を讃えられ、慰労金をもらい、母国へ帰っていった。そして、明治の改革は、クルマスの言葉を借りれば、「この改革の首尾一貫性と、それによって達せられた成功の大きさとは、歴史上類を見ない」とまで絶賛されるほどの効果をおさめたのである(クルマス 1987:327)。

5ー1ー2 フィリピン
日本と比較すれば、フィリピンでは事情は相当異なる。ある日突然支配者がスペインからアメリカへ代わり、さしたる必然性もなく、突然恩恵として無償の初等教育が与えられることになった、というのが大多数のフィリピン人の受けとめ方であろう。そのために教育に対して、あくまでも受動的な態度をとった。
当初はアメリカの軍人を送り込んできた輸送船は、平定後はアメリカの教師を次々と運んできた。やってきたトーマサイツ達は理想に燃えた青年達であった。彼らはアジアの未開の地に文明の恩恵をもたらそうと真剣であった。使命感に燃えたアメリカの若者たちは、大半は誠実で献身的に仕事をやりとげた。アメリカ式民主主義の理念は国の隅々まで紹介されていった。1907年には早くもフィリピン人の議員から構成される立法府フィリピン議会が開設され、21歳以上の男子は選挙権を与えられた。
アメリカ人教師達がフィリピン人の心を掴んだのは事実のようである。歴史家スターティヴァントは「トーマサイツ達はたちまちのうちに、フィリピン人たちの尊敬と愛情を勝ち取った」と述べており(Sturtevant 1976:44)、フィリピンの言語学者ベアナーベイは「彼らは学校や大衆の中で献身的に働いたので、たちまちのうちに生徒やその親から、愛情と尊敬を得るようになった」と手放しで賞賛している(Bernabe 1987:33)。また後年トーマサイツ達も当時を思い出して、異口同音「人間関係も素晴らしく、我々はどこへ行っても歓迎された」と述懐している(Lardizabal 1991:59)。
日本でも、御雇い外国教師は明治の人々に深い感銘を与えた。日本人にとりクラークやケーベルのように、後年教え子たちから敬愛の念を持って語られる人物も多い。しかしフィリピンではその影響が、より組織的であり、より広範囲で、より大衆に及んだという点が異なる。

5-2 両国における外国語教育の意義
5ー2ー3 日本
日本における外国語教育はそれなりの成果を挙げたと言えよう。明治期の日本の目的は、西洋の学術の導入であり、それは少数の専門家が外国語の文献を十分にこなせるだけの語学力があれば、可能であった。一般大衆にまでおよぶ広範囲な外国語の普及は当時においては必要はなかった。
また幕末の時点である程度交通が発展しており、人々の流動性もあったので、各地の方言は、意思疎通が可能な範囲の相違であり、やがて東京方言が共通語として急速に広まっていった。そのために、フィリピンのように共通語として外国語に依存する必要はなかった。

5ー2ー4 フィリピン
フィリピンにおける英語(外国語)教育の意義として、フィリピンの国民にとっての共通語をもたらしたことがあげられる。1975年の国民統計によれば、フィリピンでは主要な言語だけで8つあり(7)、1000人を越える話者のいる言語は73に達する。この国に各民族が理解できる共通の言語として英語が導入された点は高く評価される。
しかし英語運用能力が身についたとしても、しょせんは、第二言語としての言語運用能力であるので、そこには自ずから限界がある。教育効果に関しては、母国語と構造体系の全く異なる言語をあまりに早く学ぶことで、知的能力の発展が阻害される面がある。1925年にモンロー委員会が、フィリピン児童の英語能力を調査したが、その報告では、フィリピンの第4学年の児童はアメリカの児童よりも英語の読みの点で2年ほど遅れているとした。また上級中等学校卒業時の能力はアメリカ児童の第5学年に相当し、その時点で6年の差が生じると報告している(Bernabe 1987:47-9)。母国語による言語体系が確立以前に、全面的に外国語教育を受けると、このような問題が生じるのである。それはフィリピン人は自らの言語で思考する権利を奪われたとも言える。
もっと大きな問題としては、フィリピン人の民族的性格に根本的影響を与えたという点である。英語教育を通して、感受性の強い時期の子供に、アメリカ文化(大衆主義、物質主義、民主主義、男女平等の思想)を植えつけたことで、フィリピン人としてのアイデンティティが弱められる結果となり、このためにフィリピン人は A Little Brown American (小柄な褐色のアメリカ人)と揶揄されるようにもなった。フィリピン人は人種的にはマレーシア、インドネシアと同じくマレー人の国家であるが、マレー人よりもアメリカ人に親近感を抱くようになった。しかし文化伝統が根本的に異なるアメリカを模倣しようとしても限界がある。例えば、教科書は当初はアメリカから輸入されたので、子供達は、見たことさえもないもの、例えば、吹雪や氷、リンゴや梨、熊や狼、リンカーンやジェファーソンに関する知識を覚えていったが、所詮は皮相的な知識としてしか定着しなかった。その意味でフィリピン人の文化は根無し草になったと言えよう。
英語教育により、英語が流暢なエリートと大衆との分離を拡大・固定化した面もある。日本では、どの階層も同じ日本語を使っているので、言語的には階層間の交流や移動が容易であるが、フィリピンでは英語を十分に学ぶだけの資力を持った階層の子弟のみが専門職、実業家、高級官僚につくことができた。
フィリピンの思想家コンスタンティーノは、アメリカによるこのような教育を著書 The Miseducation of the Pilipino の中で、「えせ教育 miseducation」として痛烈に批判している(Constantino 1982)。彼によれば、アメリカ人教師による初等教育は、アメリカ軍の平定作戦の一環として実行されたのであり、軍事作戦の補助として教育が存在したのである。当時英語教師一人は米軍の一中隊に匹敵する働きをしていると言われさえした。
アメリカの青年達が、理想に燃え困難に立ち向かいながら、小学校で教育をおこなってゆき、その結果フィリピン人の心を掴んだことも事実である。しかし、その教育が成功したことが、植民地支配を強固にして、アメリカへ過度に依存する経済、大地主制の温存、アメリカへの頭脳流出など、今日のフィリピンの抱えている様々な問題を生み出す一因になったのも事実である。

おわりに:望ましい異文化交流と英語(外国語)教育
異文化が出会うとき、二つの文化が対等に交流することは稀である。たいていは、一方が高く、他方は低い。交流は高い文化から低い文化へ影響を与えるという形をとる。その影響の媒体となるのは外国教師と外国語教育である。異文化の出会いにさまざまなパターンがあるように、外国教師と外国語教育の演じる役割も多種多様である。その意味でアジアの二つの島国での外国教師と外国語教育の事例を比較することは興味深い。
日本では、日本語の地位を脅かすまでは外国語教育は根づかなかった。むしろそれゆえに国の発展がありえたとも言える。西洋文化を取り入れながらも、日本文化と日本語を基本にして、国の発展が進んだ。この基本にした日本文化と日本語が肥大し過ぎて、狂信的な国粋主義のもとで、英語が敵性語、敵国語として排除される時代もあったが、概して異文化交流は調和的におこなわれたと言えよう。
フィリピンではアメリカ文化の取り入れと英語教育に成功した(または成功し過ぎた)ゆえに、後に多大の問題を引き起こすという逆説的な現象が生じた。アメリカ式の大衆教育と英語の普及という目標は見事達成されたがゆえに、長期的にはフィリピンの文化・教育の混乱を引き起こしたのである。1946年の独立以降もアメリカと臍帯はつながっており、野菜市場では民族語、高級百貨店では英語が使われ、漫画は民族語、学術書は英語で書かれるという言語的二元状態が存在する。これは他のマレー人の国と比較するならば、際だった対照を示している。インドネシアでは独立後、オランダ語は行政・教育の場から比較的短期間で一掃された。マレーシアでは、1970年から徐々に教育の場から英語を自国語に置き換えつつあり、現在マレーシア語で出版された学術書を多く見ることができる。
確かに、スペイン統治下では無知の状態に置かれていた一般大衆が、アメリカ文化という色眼鏡ではあるが、知識を得て世界のことに目を向けることが可能になったことは大きな成果である。しかしながら、異文化交流は、主観的にはその国がいくら善意の持ち主であれ、他国から交流が押しつけられという形では、十全な機能を果たさないであろう。恩恵として与えられる外国語教育も、結局は支配の強化にしかつながらないであろう。


(1)豊田俊雄 1978 『アジアの教育』 アジア経済研究所 (p.43) によれば、当時の先進国の識字率は、プロシア(80%),イギリス(67-70%),フランス(55-60%),スペイン(25%),イタリア(20-25%)であった。
(2)『資料日本英学史2』(川澄編 1978:13)によれば、太政大臣三条実美が
800円、右大臣岩倉具視が600円、参議で内務卿の大久保利通が500円、東京大学綜理加藤弘之は400円であった。
(3)教師と児童がフィリピン人どうしなのに、英語を使うという奇妙な状態は、
1957年に、民族語の使用が認められるまで続いた。
(4)このホセ・リサールの「発見」は「発明」と言ってもよいであろう。
Corpuz(1989:20-39)によれば、当時の社会状況から見て、現地人がほとんど読み書きできたとのモルガの記述は根拠がないとしている。ただし「言語が美しい」か否かは主観的な問題であり、読み手の解釈による。
(5)もちろん英語教育への反発もある程度は見られた。教育がすべて英語でおこなわれるのは不自然であると、民族語での教育を提唱する声は時折聞かれた。たとえば、1907年には公立の初等学校では民族語で授業をおこなうべきとマニュアル・コラレスが提案して、1908年にフィリピン議会を法案148号として通過するが、フィリピン委員会(上院の機能を持つ)で否決されるということが起こった
(Salamance 1984:197)。
(6)公用語(official language)と国語(national langauge)の区別は、前者は官庁や教育の場で使われる言語であり、後者は国家の象徴としての言語である。日本の場合のように、あらゆる場面で日本語が使われている国では、公用語と国語を、ことさら分けて意識する必要はない。
(7)フィリピンにある主要な言語の数をいくつとするか諸説がある。それは方言の分類の仕方であるが、Herbert and Milner (p.155)では、セブアノ語、タガログ語、イロカノ語、ヒリガノン語、ビコール語、ワライワライ語、パンパンガ語、パンガシナン語と分類してある。しかしセブアノ語、ヒリガノン語、ワライワライ語は、しばしばビザヤ語として一つの言語と見なされることがある。

文献

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豊田俊雄 1978 『アジアの教育』 東京:アジア経済研究所
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ベルツ、T.編(菅沼竜太郎訳)1979 『ベルツの日記 上下』 東京:岩波書店
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三好信浩 1986 『日本教育の開国:外国教師と近代日本』 東京:福村出版
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