世界語としての英語の将来 1992年執筆
1 はじめに
過去において、言語の異なる人々の共通語として、数多くの言語が使用されてきた。それらは当時における強国の言語であることが多かった。強大な政治・軍事力、高い文化を背景として、ラテン語、アラビア語、フランス語は人々の共通語として広く用いられた。また交易をおこなう商人間や各地から連れてこられた奴隷の間で、意志伝達の必要性から互いの言語が混合しあって、新しい共通語が生じることがあった。これがピジンとクレオールである。また自然言語には数々の欠点があるとして、より合理的な言語をつくり、万人の共通語として使用することが歴史上数多く提案されてきた。これら人工語の中ではエスペラントが一番有名である。
現代において、人々の間で共通語として用いられる言語は、英語、フランス語、スペイン語等いろいろあるが、世界的な規模で用いられる言語つまり世界語(1)としては、英語がとりわけ群を抜いている。英語は世界語としてすでに不動の地位を占め、今後その趨勢はますます強まるものと思われる。しかし世界語としての英語の普及は、英語が主に母語(2)話者の間でのみ使用されている時には、ほとんど意識されなかった問題を新たに提起しつつある。それは端的に言えば、「現在の英語が世界語として本当にふさわしいか」との問いかけである。この問いかけの内容は、ほぼ次の三点にまとめられうる。
(a)英語が世界的に普及するにつれて、英米人の用いるいわゆる「標準英語」以外に、数多くの変種(3)が現れてきた。従来のように英米の英語がもっとも権威を持ち唯一の規範であるとしたら、それ以外の英語の変種は劣った言語であるのだろうか。近年英米人以外の話し手の英語の存在を認め、さまざまな規範を認めてゆこうとの考えが広まりつつある。そして英米人の用いる伝統的に正統とされた英語の権威がぐらつき始めている。以上の情勢からこれからの世界語に最もふさわしいのは、はたしてどのような英語だろうかと改めて問う必要性が生じてきた。
(b)また言語自体の合理性という観点から見た場合に、現在の英語が世界語として人類全体に使用されるのに、はたして最もふさわしい言語だろうかとの疑問がある。世界語として用いられるには、少なくとも現在の英語に若干の改良を加えるべきではないだろうか。あるいは英語以外の言語の中にもっと論理的で表現力豊かな言語が存在するとしたら、その言語が世界語として選択されるべきではないだろうか。これらの点についても問い直しの必要性がでできた。
(c)さらに英語の普及が各民族の持つアイデンティティを脅かし、各民族のナショナリズムの反発を引き起こすのではないかとの懸念が存在する。歴史的にみて、インド、アフリカ、フランス、ラテンアメリカにおいては、英語への拒絶反応が強く存在した、あるいは現在も存在する。大国アメリカ、イギリスを連想させる現在の英語では、世界の民族のナショナリズムを永遠に刺激し続けるのではないだろうか。各国のナショナリズムと調和が可能であるかという観点から、現代の英語の現状を改めて問い直しする必要があろう。
本稿の目的は英語の世界語化にともない生じたこれらの問いを、(a)英語の変種の問題(b)英語の合理性の問題(c)英語と各国のナショナリズムの問題、として順次検討して、同時に世界語としての英語の将来について考察をおこなうことである。
2 英語の変種の問題
現在英語の変種の数は増加しつつあるが、同時に英語の単一化への傾向も潜在している。本章では前者を「英語の拡散化」、後者を「英語の収束化」と考え、それぞれの側面からこの問題を検討してみたい。
2.1 英語の拡散化
英語は16世紀以前には、わずかイングランド地方でのみ使われる言語であった。しかしやがて各地に広まり、現在の世界ではもっとも広く使われている言語である。現代ではその使用者は膨大な数に達しており、母語として使用する者は約3億人、非母語としての使用者は約4億人(第二言語としての使用者は約3億人、外国語としての使用者は約1億人)と言われている (小池、1986:11)。その使用者数は年々増大し、非母語の使用者、中でも外国語としての使用者数の増加が著しい。まさに英語の拡散化現象が進行中であるといえよう。
現在この英語の世界の重心が従来の母語として使用する者から移行しつつある。つまり母語話者どうしの英語から、母語話者と非母語話者との間の英語、さらには非母語話者どうしの英語へと、使われる頻度から見て重心が移行している。その中でも特に外国語として英語を用いる話者どうしのコミュニケーションの回数が急速に増加しつつある。
この総計約7億人の人々の話す英語は、当然各地でさまざまな特徴を示し、均一の状態からは程遠い。特に非母語の話者は各地の民族語の強い影響を受ける傾向(特に音韻において)があって、英語に数々の変種を産みだしていると同時に、その話者の間に英語の能力の著しい格差が生じている。Kachru (1985:12)はこのように英語が各地で民族語の影響を受けてその土地独特の英語が生じている現象を the nativization of English (英語の土着化), そして世界中の言語が程度の差はあれ英語によって影響を受け始めている現象を the Englishization of other world languages(世界の言語の英語化)と呼んでいる。
2.2 英語の変種の分類
このように英語の拡散化が進行しているので、従来のように単一の英語だけを想定した分類では事態の本質を見失う恐れがある。新たにこの事実を反映した分類が必要となる。もちろん従来でも話される地域、社会階層、使用域(register)等による英語の変種の分類が試みられてきたが、この事象には適切な分類ではない。そのため近年英語の習得の方法の違いで分類をおこなうことが試みられている。つまり(a)英語を第一言語とする国で生まれ英語を習得した場合、(b)英語を第二言語とする国で生まれ英語と民族語を同時に習得していった場合、 (c)英語を外国語とする国で生まれもっぱら民族語を習得して後になり英語の学習を始めた場合、とに基づいて英語を分ける試みである。
これらの言語環境のもとで習得された英語は、順次(a)ENL (English as a native language) (b)ESL (English as a second language) (c)EFL (English as a foreign language) との用語が与えられている。またこれらの用語が対話の相手として暗黙のうちに母語話者を想定しているとして、特に非母語話者どうしがコミュニケーションのために使う英語を EIL ( English as an international language)と呼ぶことがある。英語は母語話者の間で母語=主要語として用いられと同時に、国際間の意志疎通のための補助語として用いられる。L.Smith (1983:7-11) は後者としての英語の性格を明確にするために、そのような英語を EIAL (English as an international auxiliary language)と名づけることを提案している。
また Kachru (1985:11-13) は図表的な分類を試みている。彼はこの多様化している英語の世界を大きな同心円にたとえて3種に分けている。内側から、(A)the inner circle:アメリカ英語、イギリス英語、カナダ英語、オーストラリア英語等の ENL いわゆる Native English が話される地域である。歴史的には英語の発生地であり、ここの英語が一番権威があるとされている。(B)the outer circle (the extended circle):インド、ナイジェリア、フィリピン等の旧植民地で ESL として英語が話される地域である。長い植民地支配の間に徐々に英語の使用が浸透してゆき、現在では行政・高等教育の場や自国内の他の民族との意志疎通の場では英語、それに対して自民族内では民族語の使用という風に言語の使い分け (diglossia) が進んでいる。(C)the expanding circle :もっぱら観光、商業、貿易、科学技術、教育等の特殊な用途のため EFL として英語が用いられている地域である。日常生活では民族語を用いている。日本、韓国、中国、タイ等数多くの国が該当する(4)。
なおこれら以外に英語が基盤となって誕生したピジン、クレオールが存在する。これは Kachru の示す円周の更に外部に位置するものと考えられる。たとえば、クリオ語、トクピシン語等であるが、英語との相互理解が困難な場合が多いので、英語とは別個の言語であると判断されることが多い。しかし現在多くのクレオールに脱クレオール化 ( decreolization ) が生じており、英語との間に連続体 ( post-creole continuum )が形成されていて、英語との間に一線を画すことは困難と思われる。その意味で本稿はピジン、クレオールも考察の対象としてゆくこととする。
2.3 英語の変種の問題に関する二つの見解
英語が世界に広まりつつあるこの傾向から判断して、英語が互いに分離してゆき、やがては相互理解が不可能になるのではとの懸念がある。過去において、ローマ帝国の公用語のラテン語はイタリア語、フランス語、スペイン語、ルーマニア語へと分離していったが、同様の事が英語にも生じつつあるのではないかとの恐れがある。Burchfield, Henry Sweet のような人たちは、遠からず各地の英語は相互理解が不可能になるだろうと予想していた。そのために英語が世界語であり続けるためには、単一の基準を今まで以上に強く守り通すことが必要であると考える人がでてくる。長い間英米人の用いる英語(ENL)が学ぶべき規範とされてきた。発音に関する基準や規範は Daniel Jones が定義したRP(Received Pronunciation)と呼ばれる英国の教育ある人々の英語であるか 、J.S. Kenyon が記述したGA(General American)と呼ばれる米国中西部の英語であった。これらの英語が唯一の絶対的基準であるとの事を、再度強く確認する必要があることになる。現代では Quirk (1985:6)は英語の多様化に警告を発しており、英米人の用いる英語が英語の規範であることを繰り返し説いている。彼によればインド、フィリピンのような地域における英語は第二言語であり、その住民は英語からの離脱を図っていて、その英語自体が極めて安定性に欠け変化や消滅しやすい。もっとも安定した母語話者の英語(ENL)を基準にしなければ言語的混沌を招く恐れがあるとしている。
しかし現在では Quirk の意向とは逆に英語に数々の基準を認めてゆこうとの考えが強くなりつつある。従来標準変種以外の英語の変種は誤用、価値の劣ったものとして低い評価しか受けていなかったが、英米人の用いる英語のみを模範とするのではなくて、各々の民族の持つ特色ある英語をも認めてゆこうとの見解が定説になりつつある。
その背景として一つは前述のように母語話者以外の英語話者と英語の変種の増加という現象があり、もはや単一の英語の世界への回帰は不可能になっている現実がある。そしてさらにはこの現象は望ましいかどうかの問題を越えて、すでに現実に存在する事実の認識の問題になっているとの考えがある。たとえばトクピシン語は伝統的に劣等な言語と見なされてきた。トクピシン語は存在に値しないとの偏見もあった。だが実質的に標準英語となんら変わりなく機能することが長い年月の後に確認された。現在ではパプア・ニューギニアの公用語になり、教育や行政の言語として十分に機能しており,往年の偏見は消滅しつつある(Sankoff,1976:304)。このように数多くの英語の変種が世界中ですでに機能を始めている現実がある。
次に言語学における研究の発展も英語の変種の認知に貢献している。これまで言語学習者の発するエラーは誤用として片付けられ、非母語話者の用いる英語は標準英語からの単なる逸脱とされていた。しかし中間言語 (interlanguage)の研究の発達につれて、これらが単に誤用や標準からの逸脱として片付けられる性質のものではなくて、それなりの合理的体系を持っていることが発見された。さらには英語の使われる状況が極めて多様化したので ESL や EFL にも固有の用途が存在し、簡素化・ピジン化された英語も、話者の程度に応じて伝達という機能を十分に果たしていると評価し、その存在を積極的に認めてゆこうとする考えが強まった。
このように英語においても単一の基準ではなくて複数の基準が可能であり、むしろそのことが現実を反映しており望ましいとの考えにまで発展してゆく。そして Kachru のような非母語話者の研究家は各地で生じているこの現象を積極的に受け止め複数の基準の確立を提唱しているのに対し、Quirk のような母語話者の研究家たちは、やはり基準は英米の英語であると説く傾向がある。ともかく英語の基準を従来通り標準英語に置くか、それとも多様な変種に置くべきかとの問いかけは容易に答えの出る問題ではない。だが現実には英語の基準が従来のイギリス英語とアメリカ英語から、今後は基準の多様化が想定される。それは英語の変種の存在の確認であり、これらはすべて英語としては等価値であるとの認識が必要となってきた(5)。それは変種の存在が英語の世界の財産であり、この世界を豊かにしているとの認識に結びつく。このことは第四章で述べる英語とナショナリズムとの関係と深い関連性を持つ。
多様な英語の変種の認識は英語教育の変化とも強く結びつく。それは英語教育の目標と方法が変わる事とつながる。 Gardner と Lambert が言語教育の動機を「道具的動機」と「統合的動機」に分類して以来、どちらが英語学習に効果的であるかが繰り返し議論されてきた。従来まではほぼ統合的動機がより効果的であろうとの共通認識があった。ここで Shaw (1983:21-33) のアジアの学生の英語学習への動機の研究の紹介をおこないたい。インド、タイ、シンガポールの学生に英語学習の理由をアンケート形式で尋ねたものである。 上位を占めた理由は (a)将来の仕事に必要であるから (b)自国内の他言語を話す人と話すため(c)外国の人と話すため、等である。反対に下位に挙げられた理由は(a)英語が話される国が好きだから(b)英米人が好きだから(c)英米人のよう考え行動したいから、等である。さらに同時に自分が習得したい英語はどの様な変種であるかとの問に対して、約半数が自国に固有の英語の変種であると答えたことは興味深い。上記のアンケートの示すように、現代では英語学習の目的は良かれ悪しかれ道具的動機に移りつつある。つまり英米の文化を知るための英語学習から、世界の人々とのコミュニケーションを行うための英語学習への目的の変化である。すでに各地の学習者の間ではこの意識が生じてその移行が進行中であると言えよう。
2.4 英語の収束化と今後の展望
英語の拡散化現象は、英語の変種の数の増加と基準の曖昧化をもたらし、やがては英語話者の間での意志の疎通を不可能にする恐れがある。だが現代では、過去の時代とは異なって英語の収束化と言ってもよい現象も同時に存在する。それはマス・メディアや交通の発達により地球が相対的に縮小したという事実と深い関連性を持つ。人々がテレビ、ラジオ、映画、旅行で共通の英語に触れる機会が増大したので、英語は単一化の方向へも向かっている。現代英語はその拡散化と収束化の互いの相反する運動の複合作用という点からも検討されなければならない。
この収束化という現象は書き言葉ではすでに顕著であった。文章の世界では同一の文法・語彙を使うことが多くむしろ世界中で共通点が目立つ。現代の変種は主に母語の影響を受け易い音韻分野であるが、今後は発音でも同一化への強い圧力がかかるだろう。その意味で現在英語に複数の基準を認めても、英語の拡散化に一定の歯止めが自動的にかかり、世界のコミュニケーションの妨げになることは少ないとの予測もできうる。
さて収束化への圧力は再び英米の標準英語へ向かうだろうか。あるいはそれは望ましい現象であろうか。ここでSmith と Rafiqzad (1983:49-58)による理解度に関する実験の結果を見てみたい。この研究は、香港、インド、日本、韓国、マレーシア、ネパール、フィリピン、スリランカ、アメリカ合衆国のそれぞれ英語に堪能な人による同一の文章の朗読を、アジア各地の人々(6)に聞かせてその理解度を調べるものである。その結果は、
(a)自国人の英語がもっとも理解しやすい。
(b)自国人の英語を除いては、理解されやすい英語はほぼどこの国でも似た ような順位を示した。(スリランカ→インド→日本→マレーシア→・・・・→アメリカ→香港)
(b)アメリカ英語はむしろ理解しづらいグループに属する。
この結果からすると母語話者の英語は難解であるので、この地域の共通英語としてはアメリカ英語よりもスリランカ英語が望ましいとの結論に達することになろう。この結果は英米人の英語よりも非母語話者の英語の方が分かりやすいという我々がよく日常経験する事実と重なりあう。
前述の ENL,ESL,EFL の分類は、英語が拡散化しつつあるという現状を踏まえた分類法であったが、ここでこの収束化現象に注目した分類が同時に必要になってくる。鈴木 (1985:136-202) は英語の収束化にともない、二つの核心を想定している。それは英米人が英語を使う場合の「民族英語」と、英米人以外の人々が相互理解のために英語を使う場合の「国際英語」である。国際英語とは民族英語のように凝ってひねった英語ではなくて、分かりやすさを目指した英語である。それは理解度では民族英語よりもすぐれている。それゆえに英米人のような母語の話者も、国際的な場では国際英語を改めて学び直す必要があると述べている。その意味で世界語としての英語の収束化の方向は英米の標準英語ではなくて、この国際英語であると言えよう。それは各民族の特有の英語の集合体であり、各民族の言語の影響を受けて成立した英語が互いにピジン化してゆくものである。それは現段階では一定の統語、語彙、発音構造を示してはいないが、今後は徐々に国際英語として明確な輪郭を示してゆくものと思われる。例えば語彙の分野において、各国の特有の英語の語彙表現が国際英語に材料を提供しつつ、その中からふさわしい語彙が選択されてゆくものと予測される。南アジア特有の英語語彙 Himalaya blunder, tight friend ,small room アフリカ特有の語彙 cop-shop, snatch boys 東南アジア特有の語彙 minor wife (7) 等が将来の国際英語に語彙を提供することは十分にありうる。
3 英語の合理性の問題
言語自体の内容、合理性の観点からいわゆる標準英語ははたして全人類が用いるのに最もふさわしい言語であろうかとの問いかけが存在する。この問いかけは英語の他の変種、あるいは他の国の言語、さらには自然語ではなくて元々合理性を目指して作られた人工語のほうが世界語にはふさわしいのではとの問いかけである。この章では主に人工語と自然語の優劣を比較する形で、標準英語の適格性を検討してみたい。
3.1 人工語とは
合理性の観点から見て最もふさわしい言語とは人工語であろう。だが合理性とは何かについて合意に達するのはしばしば困難である。人為的にもっとも合理的な言語を作りだそうとの数々の試みの歴史は、言語における合理性とは何かとの問いかけの歴史でもある。人工語を創造する方法に応じて、それは二種類に分けられる。先験的言語と後験的言語である。
先験的な人工語は18世紀の啓蒙思想の影響によるもので、人間がアプリオリに持っている論理は人類に共通であるので、それを言語として具体化しようとしたものである (二木,1981:43)。森羅万象を数字で表そうとしたベッヒャーの数字・記号語、ネーテルの絵文字、音楽で全てを表すシュードルの世界音楽語「ソルレソル」等それぞれ楽しい試みがおこなわれた。だがこれらの理性にもっとも沿ったはずの言語が、言語としてはかえって不合理になるという矛盾が生じた。その奇想天外さと不自然さゆえに、どれも実用までには発展しなかった。
一方後験的な人工語とは、基本的には自然語の性質を残しながら人工の手を加えてより合理性を追求した言語である。文法の完全な規則化、発音と書記法の完全な一致がその具体的特徴である。先験的人工語の失敗の後、発表された人工語はほとんどこの形式である。有名な例ではエスペラント、ヴォラピューク、イド等が挙げられるが、現代では人工語運動自体がやや停滞していると判断されよう (Large,1985:177-201)。しかしこの運動が投げかけた意味は大きく、言語が世界語化へ歩むさいの条件に多くの示唆を与えてくれる。
3.2 人工語の優位性
人工語が自然語に対して合理性の面から優れているとすれば、人工語はまず第一に(a)論理的である、そのために(b)意図したことが効率よく正確に伝わり(c)覚えやすい、ことになる。なお合理性に加えて人工語が(d)中立的であると言われる。これらの点が人工語の利点として挙げられよう。これらを順次検討してゆく。
3.2.1 論理性
論理性に関して、ある言語が他の言語より優れているとの説が存在する。たとえば、フランス語は明晰な言語であり思想を表すのに最適であると言われたり、日本語は非論理的なので科学の文章を書くのには不適当だが、感情の細かい抑揚を表現するのには優れていると言われたりした。有名なサピア=ウォーフの仮説は人間の思考と言語との間に密接な関連があると述べている。つまり思想とは言語から徹底的な影響を受けるのである。それによれば明晰な言語からは明晰な思想が生じることになる。そして人工語は初めから明確さを目標にして創造された言語であるので、自然語のように曖昧な解釈の余地はなく、格段に論理的な言語であるとの主張が出てくる。
上記のサピア=ウォーフの仮説に対して、現代の社会言語学は異なる見解を示している。その見解によれば、言語の論理性に関しては全ての言語は等価値である。あるのは言語の論理的使用法と非論理的使用法である。日本人の発話が曖昧で解釈に苦しむとすれば、それは日本語に起因するのではなくて、日本人の言語使用法の問題である。つまりそれはそのグループの成員の文化態度の問題である。またある言語が論理性に欠如しているために学問の研究の道具として不適であるとよく言われるが、それも要は語彙の不足に由来することである。どんな原始的な部族の言語でも、新たに語彙を創造するか借用することで、原子物理学やコンピューター・サイエンスといった高度な学問を研究することができるとしている。現代ではこの有名な仮説は疑問視されていると言えよう(Wardhaugh,1986:218)。つまり論理性においてある言語(ここでは人工語)が優れているとの判断を下すこと自体は無意味なことになる。
3.2.2 伝達の効率性と正確性
人工語は一単語は一つの意味しか持たないことを原則として、曖昧さを嫌う。また自然語において無駄と思える部分を切り捨てて最小限の労力で最大限の伝達を成立させようとする。たとえば英語のThose books are expensive. という文には複数である事を示す情報が those, books の s, are の三個所に示されている。人工語は自然語の持つこの余剰性 (redundancy) を切り捨て徹底的に効率性を追求する。だがこの余剰性が自然の会話のさいに実は必要であるとの見方もある。会話の時に必ず起こる聞きのがしや聞き間違いを是正するのはこの余剰性であり正確な伝達に貢献をしている。ここで人工語のように簡素化された言語は通常の伝達行為の際にかえって不便ではないか、そしてある程度の余剰性を含む自然語が実は伝達の正確性から見てもっとも合理的かも知れない。このように効率と正確性の上でどのような言語が優れているかについて、簡単には結論はでない。
3.2.3 習得の容易性
覚えやすさという観点から見て人工語は優れているとの説がある。母語として言語を習得するならば自然と覚え、習得の難易度を意識することはないが、ある程度生長してから学習する場合は覚えやすさは重要な要素となる。ところで
Chomsky は人間には生来的に言語習得装置 (LAD) が備わっており、人間の言語は基本的部分は共通で普遍性があると述べている。とりわけ普遍性が強い部分は無標(unmarked)、弱く周辺部に属する個所を有標 (marked)と呼んでいる。無標の部分は定義上世界の言語にほぼ共通してみられる構造であり Language Universalsと呼ばれている。各言語の相違とは有標の部分の相違に他ならない。無標の部分の習得は LAD に生来的に組み込まれているので容易であるが、有標の部分の習得は困難である。このような Chomsky の仮説をもとに望ましい言語の姿について数々の仮説が提示されている。
自然語は数多くの有標部分を含むので新たな言語習得者には覚えづらい。だが言語の無標部分からなる人工語を創造したら習得が容易だろうと思われる。これらの考えから発達して世界語は Language Universals に基づくべきとする考えもある。エスペラントは自然語を最大限に改良して合理的言語に仕立て上げたのであるから、現在存在する言語の中では Language Universals にもっとも近い姿をしているはずであり、世界語としてふさわしいことになる(Dulichenko,1988:149)。
また Bikerton (1981) はピジン、クレオールが Language Universals に最も近いとの仮説を立てた。言語が異なる人々が接触しあって誕生するピジン、クレオールにおいては、事実だけを飾りなしで伝達することが必要となる。つまり言語の持つ本質的な機能のみを発達させる必要があり、その結果ピジン、クレオールは言語の一番本来的なあり方に近くなるとの仮説である。彼によれば人間の中には遺伝的にバイオプログラミング言語が組み込まれている。これらは通常は文化言語の圧力により変容された形で現れるが、まったくの真空状態のときには完全な姿で発現する。これらが純粋な形で現れたのは、歴史上極めて古い時代の人間の言語、幼児の言語そしてピジン、クレオールであるとする。これらの説に従えばピジン、クレオール化した英語は標準英語よりもずっと本来的な言語の形を示すことになる。
ところで英語の特徴として、それ自体がピジン、クレオールに近いことに注目したい。英語の歴史は多くの外来要素の取入れの歴史であり、多くの語彙を借用して英語自体を豊かなものにしてきた。また英語は単語の屈折が簡素化されており、統語構造を語順で表すことが多いが、これは典型的なピジン、クレオールの特徴である。英語は自然語の中でも極めてピジンに近いという意味で異色であり、その言語が世界語になりつつあることは大変興味深い現象である。
これらの Language Universals の研究は日が浅く多くの説がまだ定説にまで発展していない。少なくとも自然語に対して人工語やピジン、クレオールが覚え易さのの点で優位を示す決定的な証拠は存在していない。
なおここで書記法の習得の容易性についても検討してみたい。発音と書記法が完全に一致する人工語は自然語より覚えやすいと言われる。自然語は発音と書記法に乖離が見られる。英語はそのスペリングについては幾度となく不合理が指摘され、それにともない改良運動が行われてきた(たとえば Bernard Shaw)。それらはほぼ失敗に終ってきたが、アメリカにおける Webster によるスペリングの革新は有名である。もちろん発音は必ず時代と地域によって変化する性質があるので、余りに理想を追求すると、歴史的にも地理的にも相互に理解不可能な別個のスペリングを生じさせることになる。このことを念頭においた上でも、ある自然語、たとえば英語のスペリングの改革は若干必要であろう。
3.2.4 中立性
中立であることが世界語の条件とよく言われる。英語を世界語として採用した場合、英米人のみが有利になるとの指摘がある。現在多くの科学文献は英語で書かれているが、その恩恵に一番与っているのは英米の科学者であるとの見方がある。また国際会議や海外旅行等で英米人は生まれながら国際人となっているとの羨望まじりの苦情もある。だが人工語はどこの国の言語ではないので最も中立であり、その結果万人に公平である。さらには忌まわしい植民地支配の連想もなく、人々が先入観なしに使える言語であり世界語として最適との意見がある。
人工語は中立と言われるが、その多くは西洋の自然語に立脚しており、西洋人以外の話者にとっては習得は相対的に困難であり、厳密な意味で中立とは言いがたい。そのために自然語の中からもっとも中立的な言語を選んで行く方法も検討に値するだろう。自然語の中で英語は比較的中立的な言語であると言われることが多い。数多くの西洋の言語の中で英語がいわゆる言語帝国主義を唱えることは比較的少なかった。フランス人は文明の担い手としてのフランス語にあまりに誇りをいだき過ぎて、自国内に存在するブルトン語、オクシタン語、アルザス語等のパトワ(patois) の完全な消滅を企てた。この点英語は極めて他言語に対して寛容であった言えよう。ここで前章で述べた民族英語と国際英語の分離がより積極的におこなわれるならば、英語の中立性がより高まるであろう。これは次章で述べる言語とナショナリズムの問題とも深く関連がある。
3.2.5 将来への展望
人工語の運動は言語のあるべき姿について、数多くの可能性を示したことは評価されてしかるべきである。20世紀の初頭においては人工語の運動は宗教的運動の様相を見せて、世界平和のためには早急に人工語の選択が決断されるべきであると信じられた時期もあった。しかし自然語のような政治・文化的背景に欠けている人工語が世界語として採用される可能性は今日ではやや遠のいていると言えよう。また当初人工語の長所とされた点も言語学の研究の深まりにつれて、やや疑問視されつつある点もある。結局これらの人工語の投げかけた問いの意味とは、望ましい世界語のあるべき姿についての思考を深めさせ、言語とは自然に得られるものではなくて人間が選択できうる性質のものであるとの認識を広めたという点に尽きると思われる。世界語として望ましい言語のあり方について人工語運動は数百年にわたってシュミレーションを実行してきたと言えよう。
人工語の世界語化と同時に自然語の改良運動も注目されてしかるべきである。たとえば言語学習者にとって、記憶の易しさは重要であるので、時間と労力の効率を考慮して、語彙を制限しようとした簡易英語の試みがある。 Richards と Ogden による Basic English がその例として挙げられる。また ESP ( English for Specific Purposes ) の研究もこの方向に沿ったものである。
これらは世界語とは必ずしも標準英語に限らず、その他の言語、たとえば数多い英語の変種の中から人類が意識的に選び取びつつ改革してゆく可能性を示している。そして単に標準英語だけが英語という名に値するとの思い込みは、英語の変種の持つ豊かな可能性を奪い去り、英語の合理的言語への道を閉ざすことである。
4 英語と各国のナショナリズムの問題
前章で英語は比較的中立的色彩の言語であったと述べたが、歴史を振り返れば、英語の普及が各民族のナショナリズムの反発を受けるのではないかとの疑問はあながち杞憂とは言えないだろう。英語は19世紀にはイギリスの植民地主義そして20世紀にはアメリカの帝国主義と同一視されることがあった。第二次大戦後のアジア・アフリカで数多くの国が独立をなしとげたが、その際に旧宗主国の言語は排斥されることが多かった。行政、教育の言語を自国の言語で遂行すること、つまり言語的独立もこれらの国の目標の一つであった。またアメリカの世界の指導的地位に反感を持つ国では、英語の普及に冷淡であった。この英語からの脱却傾向が今も存在して、今後もこの現象が持続するならば、やがては英語を使う人々の数が減少して、英語が世界語としての地位から滑り落ちるのではとの危惧が存在する。その意味で英語がどのように各国のナショナリズムと調和を図ってゆくかを問うことは極めて重要なことである。
4.1 言語とナショナリズム
ところで人間には自己の属するグループの一員であることを、そのグループに固有の言語を用いることにより確認する性質が生来的にある。スラングの使用は自己の所属するグループへの忠誠の証明であり、同時に他グループへの訣別を示す。黒人が用いる Black English は自分が白人ではなくて、黒人に属しているとの自己確認の道具である (Trudgill,1974:69)。しかし政治的に言語が民族の主たるアイデンティティを示す道具であるとの思想は歴史的には比較的新しい。ドイツロマン主義の時代に Herder は民族と言語の結びつきを強く主張したり、ナポレオン戦争のさいに Fichte がドイツ語のアジテーター役をしたりして、次第にこの思想が普及していった。それ以前はむしろ宗教・文化等がアイデンティティを示すものと考えられていたが、次第に民族とは同一の言語を持つ人々の集団を指し示すものであるとの考えが学問的にも強まった。それは政治的には19~20世紀初頭のヨーロッパと20世紀のアジア・アフリカ諸国において、民族自決運動の形態を取ってもっとも顕著になった。それは自民族の言語以外の言語の使用を強く拒否しようとする思想である。
4.2 言語政策
ある言語が他の民族の中へ普及してゆくさいに、その影響が好ましいかどうかについて国家は大変敏感である。そのため言語とナショナリズムの問題は各国の言語政策と密接に結びついている。ところで言語に関することは人為的に介入すべきではない、あるいは言語とは人間の作為を越えたところに存在するので介入が本質的に不可能であるとの信念がある。これはある程度成熟した言語社会に住む人々に多い言語観である。彼らは言語の改良の必要性は余り感じず、むしろ言語は自然のまま変化してゆくべきと考えやすい。しかしこれには歴史的に見て、多くの反例が存在する。たとえば独立の間もない国や早急に自国の言語を確立しなければならない国は、国家の施策として言語計画を迅速に実行することが要求され、事実それらの施策はある程度の成功をおさめた。トルコ語、ヘブライ語、ノルウエー語がその例である。このように言語への人間の関与は可能であり、幾多の実例がある。
ナショナリズムと言語の問題は言語政策という形で国家の意志の遂行により解決が図られる。そのためにナショナリズムと言語政策は切り離せない。自国のアイデンティティつまり自国語が外来の言語文化の侵入により危機に面していると意識する時、ナショナリズムは高揚する。圧迫を意識する言語側ではナショナリズムが高まり、その外来の言語文化を排除する方向で解決しようとする。その意味で英語が他民族のナショナリズムを刺激することは各国に英語を排除する言語政策を促すことになる。
4.3 各国の英語への態度
ここで世界の各民族の英語への態度に注目してみたい。ただ「態度」という概念は余りにも曖昧模糊としているので、ここではその言語の話し手である民族の言語政策(8)を言語に対する態度と読みかえる。各国の英語に対する態度は、排斥を試みるものから、中立的態度、同化を試みるものまで千差万別であるが、過去に英米の植民地であった国を中心にあらましを見てゆく。
(a)イギリスの植民地からの独立運動が最も強まった時期のアジア・アフリカでは、反英運動が反英語運動と結びついていた。それ故に独立後急速に英語つまり旧宗主国の言語からの解放が進んだ例がある。1963年マレーシア連邦が誕生したが、それ以降政府は強力な国語政策を推進している。政府は昔からリンガ・フランカとして存在していたバハサ・マレーシア語を公用語に選び、政府機関、マスコミから英語の追放に成功しつつある。教育の場でも中等学校では一時期90%の学校が英語による授業をおこなっていたが、バハサ・マレーシア語への置き換えが進み、近々には置き換えが完成の予定である(Platt,1982:384-414)。
東アフリカのタンザニアも英語離れを成し遂げた。タンザニアは1964年英国の植民地から独立した。人口は約1500万人であり、その言語は135以上を数えるという。言語の大半はバンツー語族であるが、特に優勢な言語は存在しなかった。最も大きな言語である Sukuma 語も、わずか 12.6%の人々に話されているばかりである。 言語計画の当局者たちは特定の部族の言語を公用語として選択することは、他の部族の自尊心を強く傷つけるものだと考えできるだけ中立的な言語を捜した。その当時交易のルートに沿ってスワヒリ語が商人のリンガ・フランカとして存在していた。スワヒリ語を母語とする人は少なかったが、等しく大多数の人が知っている言語として広く普及していたので政府はスワヒリ語を公用語と定めた。政府はスワヒリ語の正書法の確立、語彙の増大化等の改革を続けたので、現代では完全に公用語としての機能を英語に取って変わった(Fasold,1984:266-291)。これらが英語以外のある言語を選択してそれを自己の言語として守り育てた事例である。
(b)だが英語離れが現在の時点では成功していない旧植民地も存在する。アジア・アフリカの植民地はヨーロッパ諸国による便宜的な国境の線引きの結果、数多くの民族を含んだまま誕生した。そのため独立後共通の言語を定めることがしばしば困難であった。その場合にやむをえず旧宗主国の言語である英語を使わざるをえないときがある。
インドはその典型である。インドでは独立以前は英語に対する強い拒否反応があったため、独立後は急速に英語の役割が減少するものと予想されていた。しかし代わりにヒンディー語を唯一の公用語とする計画は南部ドラビタ語族をはじめとする諸民族の根強い反対により繰り返し延期を余儀なくされている。国内の意志疎通のためにヒンディー語、アッサム語、ベンガル語、ウルドウ語等、15の言語が公用語となっている。しかし行政の分野を始めとする全国内的な規模のコミュニケーションの時は英語が不可欠であり、この傾向は強まりこそすれ弱まりはしない(Das Gupta,1970)。
アイルランドの歴史も英語を深い関わりを持つ。アイルランドの人々は古来ケルト語が母語であったが、12世紀以降英国の支配が始まり徐々に英語が浸透し始めた。1750年から1850年の間に人々の使用言語はアイルランド語から英語に移行した。ところで19世紀後半からの独立運動の高まりと同時にアイルランド語の復活運動が高揚した。人々は父祖の言葉として再びアイルランド語を学習し始めた。しかしいざ1922年アイルランド自由国として独立を達成するとアイルランド語復活運動は低迷を始めた。政府の懸命な復活運動にもかかわらず教育・行政の言語としての全面再生はほぼ不可能と判断されている (Macnamara,1971:65-94)。
シンガポールは上記の国々とは若干ニュアンスを異にする。この国は多民族国家であり、現在英語を共通語としている。シンガポールはインド、アイルランドとは異なり、むしろ英語を第一言語へと高めようと努力しているように判断される。貿易、金融、商業の国として生きてゆくために、世界語としての英語を身につけようとしているからと思われる(Platt,1982:384-414)。
(c)これらの旧植民地以外の国の態度も肯定的と否定的に分けられうる。英語学習の盛んな日本・韓国は英語に対して積極的態度の国の範疇に入るであろう。逆に英語に対して消極的あるいは敵対的な態度を取る国(地域)もある。カナダにおけるケベック州政府の英語排除政策は言語戦争を思わせるほどの物議を醸し出している。フランスでは英語特にアメリカ英語の自国語への参入をかたくななまでに拒んでいる。この国では「フラングレ」(9)と言う英語によって「汚染」された現代フランス語を示す言葉がありさえする。かつての世界語の代表であったフランス語は英語の侵入を「言語汚染」と見なし自らのアイデンティティへの挑戦と感じているようである。
これら各国の事例から一般化して次のような傾向が見えるだろう。
(a)英語によって自民族のアイデンティティを侵された旧植民地では、国の言語政策は自国の言語を育て英語を排除することを目的とする。その場合自国内にリンガ・フランカが存在していれば、中立的言語として公用語に採用される傾向がある。
(b)ただし国内共通語の選択の合意に成功していない国では、消極的選択として英語が使われている。
(c)逆に英語の普及が自民族のアイデンティティにまで及ばないときは積極的導入に走る。日本では英語学習が盛んであるが、それは自己のアイデンティティを脅かさないとの安心感があるからとも言えよう。
(c)いずれにせよナショナリズムの上からは英語の中に含まれる英米の文化・伝統や独自性は英語の普及にマイナスであると判断される。
4.4 将来への展望
英語とナショナリズムの問題に関して数々の提案がある。その一つとして R.Fasold (1984:289) はアイルランドの現在までの繰り返されてきた英語排斥運動とその挫折を検討して、今後はアイルランド英語をその国民性の基盤にすることを提案している。現代のアイルランド英語は r音変種をはじめとして標準英語とは異なる一定の特徴を示す。このアイルランド英語は忌まわしいイギリス英語の片割れではなくて、実はアイルランド人のアイデンティティを示す貴重な財産であるとの指摘である。この発想の転換は英語の変種への見方を変える。つまり英語の数多くの変種が標準英語からの逸脱や暗い植民地時代の思い出を示すという否定的な意味ではなくて、各々の国民の持つアイデンティティを示すと言う積極的意味へと変化するのである。
この提案は第二章で Kachru の述べた各地域における英語の変種の尊重とも結びつく。各国の変種の尊重とはその民族のアイデンティティを尊重することになる。彼はインド英語の存在理由として国内共通語として貢献し、また独自の高度な文芸作品を生み出していることを挙げている。このような貢献をしているインド英語にはそれなりの価値があり、インド人の持ちうる誇りであるとしている。過去においてアメリカ英語はイギリス英語と比べて劣り価値の低いものとされた時期があったが、Webster を始めとする多くの人々によるアメリカ英語の確立の努力の結果、アメリカ人のアイデンティティを示すものにまで発展した。同様のことがインド英語に起こらないとは断言できないだろう。
各国のナショナリズムは自前の言語を持つことを要求する。その意味では言語の拡散化へと結びつき言語的混沌が予期される。しかしこれらの英語の変種がアイデンティティと結びつき、アイルランド人がアイルランド英語を誇りに思い、インド人がインド英語を誇りに思うことにより、英語という共通の道具を保持し続けるという意味で、言語の拡散化にある程度の歯止めがかかることになる。
そしてこれらの各国の変種の総体を「国際英語」という形で把握するならば、それは「民族英語」と比較して質と量の多様性が特徴となろう。だがこれはコミュニケーションを目的とする言語であるので本質的に民族英語よりも分かりやすい。英語をイギリスやアメリカと結びつけるならば、英語が圧迫言語と見なされる事もあるだろう。しかし各民族の英語の変種から出発した国際英語にはその色彩は存在しない。その意味で鈴木の提案した英語の二分法、民族英語と国際英語はナショナリズムの問題にも多くの示唆を与えてくれる。国際英語とは各民族が作りだした英語であり、自分自身の財産であり、何ら排除すべき理由は存在しない。国際英語はナショナリズムの問題に対し本質的に中立である。
世界中が全く同じ言語を使うことは決して望ましいことではない。世界における各民族の個性の尊重が今後は必要になってくる。このような各地の変種の存在を理解し、あるいは各地の言語に対して尊敬を互いに払うことは、他の民族のアイデンティティに敬意を払うことである。それは多元的なアイデンティティの言語観へと発展する可能性がある。つまり自己アイデンティティの確立として、母語に対する意識、評価の改革だけではなくて、他民族の言語に対する正当な評価の確立をも必要となってくるのである。世界語としての英語の普及がこのような言語観をもたらす可能性は少なくない。
5 おわりに
「現在の英語が世界語として本当にふさわしいか」との問いかけは、英語の変種の取り扱いの問題、英語が十分に合理的であるか否かの問題、英語と各国のナショナリズムがどのように調和してゆくかの問題であった。現在の英語の拡散化現象にともない多くの英語の変種が生じている。それは各地域での複数の基準の存在につながる。変種の問題の検討はこのことの確認である。この拡散化により従来の英語の中にあった英米臭さが取れてゆくことになる。
現在同時に英語の収束化現象も起こっている。それは各国の英語の変種の総合体として「国際英語」を目指しているのである。現在の段階では「国際英語」の明確な記述は不可能である。それはどのような文法であり、いかなる語彙・発音構造を持つかは予期しがたい。しかし少なくとも多くの英語の変種が一体として、解け合ったピジン化された英語であろう。ここで Bikerton の仮説が正しいとするならば、それは現在までの標準英語と比較してよりLanguage Universals に近く無標構造を多く含むので、人々にとって覚えやすく、また分かりやすい言語である。その意味では従来の標準英語よりも合理的な言語であることになる。また言語とは人間が合意により作り上げてゆく側面にも注目したい。人工語運動が過去に蓄えてきた知見を、この新しく生まれつつある「国際英語」に還元して十分に合理的な言語に形成してゆくことは可能である。またそれは英米の英語とは一線を画すゆえに、ナショナリズムの反発を受けることは少ない。そのような形での世界の共通言語社会が将来において生じることは望ましいことだろう。
なお言語政策あるいは言語計画が国家によって遂行され、その有効性がある程度現実に確認され、言語への人間の関与が必ずしも不可能ではないことが明らかになった。Kachru (1982:52) は世界語としての英語をより望ましい方向へ導くための条件整備について言及している。従来の言語政策・計画とは主に一国の内部だけの施策であったが、今後は国際的な視野での言語計画が必要となってくる。その計画を遂行するものとして国際的な機関の樹立が考えられるとのことである。さらに本稿では各国の言語学者たちが、共通理解の上に立って自国の教育改革、外国語教育法へ提言をしてゆくことにより、その条件の整備が可能になってゆくであろうことも指摘したい。
注
(1)
世界語という語は社会言語学の用語としてまだ成熟しておらず厳密な定義は得られていない。ここでは常識的に世界の人々の間で意志の伝達を行うための言語としておく。そのほかに国際語、国際共通語、国際補助語等の類似の用語があるが厳密な使い分けは今後定まってゆくものと思われる。
(2)
通常は母国語という表現が用いられるが、国家を持たない民族の言語には不適当と感じられるので、母語という表現を用いることが提案されている (田中克彦、1981:37-52)。本稿もこの使い方に従う。
(3)
変種とは語彙、文法、発音で他と区別できうる言語形態を示す。しばしば標準の言語形態がもっとも価値あるものとの評価を受けるが、社会言語学の立場からは全ての変種に対して中立である。その意味では「標準英語」とは英語の変種の中の単なる一つでしかない。標準英語という言葉の持つ価値判断を避けるために、「標準変種」という用語の使用が提案されているが、本稿ではこの用語は十分に成熟してはいないと判断して、「英米の英語」、「標準英語」、「民族英語」、「ENL」等適宜言い替えて用いている。もちろんそれは標準変種の意味で用いるのであって、なんら事前の価値判断を含むものではない。
(4)
小池(1986:11)は次のような図を描いている。
(5)
もちろんこの現象が無条件に賛成されるべきではない。今後の課題としては、英語が世界的になり各地に変種が現れると、世界の人々との伝達が可能なためにはやはり核心の部分は共通でなければならない。その場合どの程度までいわゆる標準からの逸脱が可能であるかの研究がなされなければならない (田中春美,1986:8)。
(6)
ここでのアジアの人々とは次の国々の人々である。バングラディッシュ、中国、香港、インド、インドネシア、日本、韓国、マレーシア、ネパール、フィリピン、タイの以上11の国々。
(7)
これらの意味はそれぞれ a grave mistake, a close friend, a toilet,a plice station, pickpockets, a mistress である。Kachru(1985:18) はこれらの語彙は英語の世界の中で innovation 的な働きをするものと述べている。
(8)
言語政策とは言語計画と呼ばれることもある。それはまず望ましい言語状態について目標を定めることである。ある独立国(たとえばアイルランド)ですでに旧宗主国の言語(英語)が主要語として機能している場合、実用の面から判断するとその言語(英語)を引続き使用することが望ましい。ナショナリズムの立場からは民族語(アイルランド語)を選択することが望ましい。ここである言語と他の言語の間に価値の対立が生じる。つまり実用的な面からの価値づけと、ナショナリズムからの価値づけの二つがあり、それらはしばしば対立するのである。言語政策(計画)とは、その望ましい状態に関し決定を下さなければならない。望ましい言語の姿が定まったら、次にそれを具体化するものとして、実体計画( corpus planning ) と席次計画 ( state planning ) がある。前者はその言語自体の改革を目指すのであり、後者はその言語と他の言語との関係の変更を目指すものである。日本語で漢字を簡素化したり送り仮名を変えることは実体計画に属する。フランス系カナダ人がカナダにおける英語の支配的地位に脅威を感じて、州政府が法律によって英語の使用を禁止して、フランス語の地位の向上を図ることは席次計画である。しかししばしば両者にまたがる例もある。フランス語の中から英語の借用語を取り除いて、生来のフランス語で言い替えを図り「純粋のフランス語」を守ることは、フランス語自体を改革する点では実体計画であるが、そのことにより英語に対してフランス語の地位の向上を目指すと言う点では席次計画に属する。
(9)
フラングレとは次のような合成語である。franglais → fran@ais + anglais
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