研究科での学位論文の最終試験があった。


研究科での学位論文の発表会(=最終試験)があった。これは学生たちが修士論文の概要をプレゼンして、その内容について質疑応答を受けるものである。質疑応答を無事に乗り越えれば、合格となり、修士号の授与へとつながる。

この日は、参加者の相当数がオンラインでの参加であり、また机の間隔をあけての発表会であった。そのために、例年よりは、会場での人数は少ないようであった。

この日の発表のうち、自分史のデータベース化について発表されたI氏の題目について紹介したいと思う。

学位論文の発表

I氏は、現代は家族の歴史が消えかけていると述べる。核家族化が進み、子供が家を継がなくなった。親が亡くなると家が解体されて、写真、手紙、仏壇や墓までもなくなる。家族史を書こうとしてもその手掛かりがなくなっている。そんな時代だからこそ、オーラルヒストリーで自分史を語り、DVD化して、記録に残すことが必要であると語られた。

昭和34年(1959年)の伊勢湾台風の時に、警察官であったTさんからいろいろと聞き取りをして、それをビデオ化して残そうとするI氏の試みは興味深い。これは、5,000年ほどの死者・行方不明者をだした大災害であった。

私自身も、2,3年前にバス停で老人と「伊勢湾台風」について話したことがあった。その日は風が強い日で台風が来そうだとニュースで述べていた。その老人は昭和34年の伊勢湾台風はすごかった、と述べた。岐阜県のこのあたりでも川が氾濫して大変であったと述べた。いろいろと話をしてくれたが、大きな災害を経験した古老たちの話はオーラルヒストリーとして記録に残しておくべきと感じた。

I氏が指摘されたのは、個人のオーラルヒストリーを歴史博物館や寺などに集めておくことで、地域文化の伝承に役立つ、知の拠点形成に役立つという点であった。

私自身も祖父母と父母のヒストリーは残しておきたい。写真などもあるので、なんとかわが家の歴史としてまとめたい気もする。しかし、息子たちは関心を持たないだろうな、と感じる。だが、老後の私自身の趣味の一つに個人史、家族史を書くことは面白そうだとも感じる。

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Language and Linguistics in Oceania の第10号を読む。


小松公立大学の岡村徹先生から、Language and Linguistics in Oceania,  vol. 10 の寄贈を受けた。ここに感謝の意を表明して、この学術誌の簡単な紹介をしたい。

この学術誌は、学会 The Japanese Association of Linguistics in Oceania が発行している学術誌である。この学術誌のサイトは以下の通りである。

さて、2018年の7月に発刊された第10号に関して、二つの論文を紹介したい。一つは、林初梅氏による「国語と母語のはざま ー多言語社会台湾におけるアイデンティティの葛藤ー」という論文である。

この論文では、台湾が経験してきた言語文化の変化を俯瞰したものであり、自分のような部外者にも非常に分かりやすかった。

歴史的に(1)先史時代~(7)戦後と7つの時代に分けて、それぞれを説明している。1945年以降の戦後は特に詳しく述べられている。この時代は現代につながるわけだ。この時代は、二つに、国民党が政権についていた時代と台湾意識形成発展期に分けられる。

この時期(2003年)に、中国語を「国語」と表現していたのだが、「華語」と呼ぶかえる運動があったこをと始めて知った。東南アジアでは、華語と華人という言い方をよく聞くが、この動きが台湾にも普及してきたようだ。

台湾では台湾生来の言語を「郷土言語」と呼び、言語間の平等を目指す政策が誕生しつつある。このあたりも、私は、日本の多文化主義と比較しながら興味を持って読んだ。

さて、もう一つの論文「宜蘭クレオールの語彙の様相ー東丘村の場合ー」も興味深く読んだ。これは、日本語と台湾の諸語とのクレオールが存在していて、現在もまだ残っているという話である。

宜蘭(ぎらん)クレオールについては、先日このブログでも、紹介をしていた。

論文を読んで学んだことは、宜蘭クレオールの日本語起源の語は代名詞や機能語がおおいこと、さらには西日本の方言に由来する語が多いことだ。

宜蘭クレオールはゆくゆくは消滅する語かもしれないが、研究調査によって貴重な資料が作られたことは素晴らしいことだ。

この学術誌 Language and Linguistics in Oceania の第10号には、これ以外にも三編ほどが収録されている。一つは中国語で書かれていること、他の二つは、方言の言語的機能に関する論文であったことで、私にはその3つの論文をコメントするだけの力はない。

以上、寄贈をしていただいた学術誌を紹介した。岡村先生には深い謝意を表明したい。

学術誌 LANGUAGE AND LINGUISTICS IN OCEANIA の表紙

 

『これからの英語教育の話しをしよう』の紹介


ひつじ書房から『これからの英語教育の話をしよう』(1350円+税)という本が出版された。筆者は寺沢拓敬、仲潔、藤原康弘の三氏、さらに座談会には嶋内佐絵、松井孝志の両氏が加わって活発な議論を展開している。私は執筆者の一人から、この本を恵贈していただいたので、感謝の念を表明するとともに、この本を少し紹介したい。

タイトルの「これからの英語教育の話をしよう」だが、何となく親しみの持てるタイトルである。他の研究者ならば、『現代英語教育の抜本的な改革に関する諸提案』というような堅苦しいネーミングを選んだかもしれない。タイトルを親しみやすくして、一般の読者に対して敷居を低くして、入りやすくしている。

次期の英語教育の学習指導要領の試案がすでに発表されている。また、コア・カリキュラムが示されている。これらの学習指導要領を初めとする文科省の説明をクリティカルに読み解いている。そして、それについて対案をも提示している。対案の提示とは大切なことであり、そのことによって、筆者達の言説は言い放しではなくて、責任あるものとなっている。

さて、この本だが、英語教育に関してある程度は興味を持った人を対象にしている。英語教育の問題点をいろいろとあぶり出しているのであるから、まだ初々しい心を持った学生達には強すぎる刺激を与えるかもしれない。高校生で、自分は将来英語を勉強して英語を日本の若者に教えたい、個人的には、アメリカ人のように話して、そしてアメリカ文化を日本人に紹介して、日本とアメリカの橋渡しとなって、国際化時代に貢献したいと考えている人がいると仮定する。

この高校生は、この本を読むことで、英語への初々しい心が毒されるので、毒薬みたいな作用をするかもしれない。しかし、英語へ素朴で初々しい心を持つと言うことは、実は英語帝国主義という毒薬におかされていることなので、この本が解毒剤の働きをするのである。解毒剤を飲んでから、はじめて英語に真に向きあうことができるのである。

そんなことで、まずある程度は英語教育に携わった人、ある程度は現代の英語教育の問題点の存在に気づき始めた人が読むといいのではと思う。

さて、個人的に面白いと思ったのは、CAN-DOリストについて問題点を指摘していることである。現代では、CEFRとCAN-DOリストが手放しで賞賛されていて、様々な教育機関で「バスに乗り遅れるな」とばかりに、導入が積極的に推進されている。ほとんどの論文は推進派の視点からの論文ばかりであり、慎重論の視点からの論文は少ないように感じている。この本では、慎重論の視点からの言及が見られるのが興味深い。今後は、CEFRとCAN-DOリストを日本で導入する時の問題点をもう少し詳説してもらえればと願っている。

 

論文の価値はgoogle が決めてくれる。

いろいろな論文がネットで読める。昔と比べるとネットに自分の論文を掲載することに躊躇う人は少なくなってきた。「自分のアイデアを盗まれるのでは」と心配する人もいるのだろうが、公表するということは、一番乗りを宣言することであり、むしろ必要なことであると思われる。

何かを知りたいときは、キーワードを入れて検索することが増えてきた。その時は、いろいろな論文が出てくる。最初のページに出てくる論文はやはり価値は高いのであろう。

これからの時代は、研究者の価値は、いかに多くトップページに出てくる論文をたくさん書くかによって決まっていくと思う。Google が決めるのだ。Google のアルゴリズムが各論文の評価を機械的に決めていく。その論文に対するアクセス数はどれ位か、被リンク数がどれ位あるか、リンクされている先はどれ位権威があるのか、などである。

トップページにある論文はたくさん読まれる。よって強い影響を与える。それによって多くの新しい論文で引用される。引用されることが多くなると、さらにアクセス数がふえる。その分野の研究者はその論文を読んでみようとする。いつの間にやらその論文に権威付けがされる。

現在は論文の価値は査読がある学会の紀要に掲載されたのかどうかがポイントなる。あるいは引用数がどれ位あるかも考慮されるようだ。

Simon / Pixabay

しかし、これからの時代はGoogle検索で何ページ目に現れるかがポイントになっていくだろう。教授昇格や新規採用などもトップページに来る論文を何本書いたかが審査の基準になってくると自分は予想する。

現代でもすでに採用の時は、採用審査の先生たちは応募者の名前を検索して、その人のホームページを見つけようとしている。独自のホームページがなくても、関連する情報を入手する。ホームページがあるならば、それを見て、その人の学問体系や発表した論文を見て、その人のイメージを掴もうとする。さらにはその人の論文のGoogle評価を調べる。

これからの若い研究者はgoogleを意識して、google 検索で第1ページに出てくるような論文を書くべきだと思う。また、できればホームページをきちんと作成して、自分を上手にアピールできるようにしておくといいだろうと思う。

研究誌『国際理解』に論文が掲載される。

帝塚山学院大学の国際理解研究所から発行されている研究誌『国際理解』に私の投稿論文「東南アジアの英語ーフィリピンとマレーシアの事例から」が掲載された。論文と言っても4ページほどなので、正確にはコラムと言った方がいいかもしれない。

東南アジアの英語を紹介しながら、近年ブームになっているフィリピンやマレーシアへの英語留学に焦点をあてて、そのメリットなどを論じたものである。この小論を読んで、一人でも英語留学(英語圏以外の国への留学)に関心を持つ人が出てくることを願う。

さて、昨年1年間は帝塚山学院大学に非常勤講師として通ったのである。そのことが懐かしく思い出される。この大学の学生さんは熱心に勉強してくれて、自分には教え甲斐のある1年間であった。特に後期になってからは、学生たちと歯車が上手く回るようになって、充実した日々であった。昨年のこのブログ日記には、時々その記事を書いてある。今年度は自分が岐阜に転勤になったので、大阪に通うことはできなくなり、非常勤の仕事を続けられなくなったのだが、その点は残念であった。

自分にとっては、大阪はあまり出かけたことはなかった。それで、せっかくに機会であったから、大阪見物もしたのである。非常勤先に行くときは、数時間早めに出勤して途中で必ずどこかに下車して、大急ぎで大阪見物をしたのであった。そんな風にして、通天閣、あべのハルカス、心斎橋、御堂筋、道頓堀などを訪問してみた。大阪は自分にはかなり異文化であり、楽しい混沌とエネルギッシュな町で、大いに楽しめたのであった。そんなことも懐かしく思い出したのであった。

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Language and Linguistics in Oceania に論文発表する。

2016-05-08

学術誌 Language and Linguistics in Oceania (The Japanese Association of Linguistics in Oceania) に自分の論文が発表された。この雑誌はオセアニアの言語や言語学に関する論文を発表している学術雑誌であり、今年の5月にvol.8 が刊行された。

自分の論文は “A study of literacy in pre-hispanic Philippines” というタイトルである。ページ数は14ページ(pp.22-35)である。内容は、スペイン人が到来するフィリピンでは識字率が非常に高かったという説があるので、それが本当かどうか考察したものである。

フィリピンはスペインによって350年ほど植民地支配を受けた。独立の英雄ホセリサールを初めとして次のように唱える人々がいる。「植民地支配が行われる以前のフィリピンは民度も高く、人々は高い文化文明を享受して、識字率が高かった。が、スペイン人の支配により、楽園のようなフィリピン社会が無知と貧困の社会へと変えられてしまった。これは残念なことである。それゆえに、スペイン人を追い出して、以前の楽園のような社会に復帰しよう」という考えである。

どの民族にとっても、歴史を探れば栄光の時代があったのである。「その時代に戻る」というスローガンを掲げることで、改革を推し進める原動力になることがある。日本も王政復古と唱えることで明治維新が可能になったのである。アメリカも何かあれば、開拓者精神 (frontier spirits)を唱える。 

フィリピン史においては、スペイン以前の楽園に戻ることはできなかった。すぐにアメリカの支配下に入り、人々はアメリカの文化に魅了されてしまった。ホセリサールの願った真の独立には程遠い結果となったのである。また、ホセリサールが信じた文字が普及した高度の文化文明のフィリピン社会は神話に過ぎず実体とは異なるようであった。

そんなことを論文としてまとめたのである。なお、この学術誌の発行と編集長は帝塚山学院大学の岡村徹教授であるので、岡村先生にコンタトを取られると、この学術誌の入手が可能になると思う。

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