「教師」という表現について
「理想の教師像」とは何か。ということを考える前に、「教師」という表現と似た言葉があるので、これらをいくつか列挙してみたい。それは、教師、教員、教官、教諭である。これらにはさまざまな表現の微妙な違いがある。なお、これらは慣用的に幾つかの使い分けがされるのであり、特に〜でなければならないということはない。
「先生」との表現が、呼びかけるときには、使われる。生徒から先生へ、あるいは先生同士でも、「~先生」として声を掛け合う。なお、先生は「先に生まれた」であるから、年下の人に対して、~先生と言うのは厳密に考えればおかしいかもしれない。
「教員」が一番安心して使われている。私もこのブログでは、教員という表現を好んで使っている。後ほど述べるが、教師という言い方だと人格者というニュアンスが出て、私には何だか「こそばゆい」感じがする。
「教諭」とは中等教育と初等教育で教育に携わる者を行政上でそのように呼んでいる。大学などの高等教育の場では、「教授」という表現が使われている。
「教官」とは、「官」であるので、国公立大学の教員を指す。それ以外に国立の防衛大学校とか気象大学校なども教「官」である。
「教師」は師として仰ぐという意味がある。人格的にも優れていて指導力があるというニュアンスがある。それゆえに、「理想の教師像」となると、まず、人格が優れていて、教える技能が優れている人である、が定義となる。教育論の本などでは、教師という表現が見られるが、その根底には、教師は人格者であれ、という願いがあるようだ。
ところで、教師は本当に「人格者」か「人格が優れている」のか、とよく聞かれる。「教師の犯罪」が新聞に話題になるが、それは稀であるからニュース性があるのである。職業別の犯罪発生率をみてみると、おそらく教員の犯罪発生率はかなり低いほうだと思う。
私見
学校という世界で働く人間の最大の特徴は、「競争にさらされない」世界に生きているということであろう。営業マンのように毎週たがいに売り上げを競いあう、というようなことはない。24時間ずっとストレスにさらされるということはない。勤務先の倒産も滅多にない。すると人間がおっとりとする。いい意味でも悪い意味でもおっとりするのである。(もっとも、最近は少子化が進んでいるので、生き残りを掛けて学校間での競争が高まっている。いよいよラットレースの始まりかもしれない)
ここからは自分の完全な私見であるが、人々がたがいに「おっとりとして」生きるのが理想社会ではないか。これだけ科学技術が発達したのであり、全人類が楽しく飲み食いして生きていけるだけの生産量はあると思う。もうたがいに必死の競争は不要ではないか。ストレスなどがない、人々が「おっとり」生きれる世界が理想郷である。