Facilitator としての教員
従来の授業のイメージでは、教壇に教員が立って、一斉授業で子どもたちに何かを伝える。子どもたちは教員の話や黒板の文字をノートに書き写してゆく。要は知識の伝達者として教員のイメージであった。しかし、最近はファシリテイター(facilitator)としての教員が提唱されている。授業は対話の場である。子どもたちは何かを議論しながら、考察を深めてゆく。グループ・ディスカッション、ディベート、グループワークが主軸であり、教員はそのガイド役に徹することが必要とされる。
子どもたちに「知」を与えるのではなくて、「知の見つけ方」を身につけてもらうことが目標になる。「1プラス1は2です」と教えるのではなくて、「1プラス1はいくつになるか考えてもらう。その見つけ方を身につける。そうすれば、「2プラス2は4です」ということを子どもたちに教えなくても、子どもたちは自ら「2プラス2はいくつになるか」見いだしていくのである。一人で見つけ出すこともあるが、他人と話し合いながら解決策を見いだしてゆくことが大切である。(よく言われるのは、魚を与えるのではなくて、魚の釣り方を教えなさい。そうすれば、教えられた人は一生食べていける、という喩えがある)
そんな問題解決能力を身につけて、発見学習ができる子どもたちを育てることが理想の教育である。ところで、これは理想である。なぜ、そうかと言うと実際にそんな授業を試みた多くの教員が現実の厚い壁を乗り越えられないのである。
グループ・ディスカッションをさせようとグループを作っても、たとえば、「英語で自分たちが将来の夢を語り合いなあい」と指示をしても、結局は日本語での雑談に終わってしまう。子どもたちも「ディスカッション」を通して何かを見つけ出すという訓練に慣れていない。これならば、教員が教壇の上から何かを教えた方が少なくとも何かを学んだという満足感を子どもたちは得ることができる。
英語の授業においては、これがより難しいことになる。日本語でもグループ・ディスカッションができないのに、ましてや英語で行えと指示しても子どもたちは迷うだけである。グループの中では、ただ沈黙が支配するだけになりがちである。
しかし、これは慣れだと思う。小学校、中学校、高等学校、大学と次第にグループ・ディスカッションの時間を増やさなければならない。子どもたちの間で司会者を決めさせる。そしてその司会者の下で話しをまとめてゆく練習が必要だ。いったん、日本語でもそのような議論形式に慣れたら、次は英語でのディスカッションに慣れることが必要だ。
英語は単語を覚え、文法を覚えて、発音訓練をする。それが第一歩だが、次はコミュニケーションに慣れなければならない。単に英語のCDを聞いて、それを繰り返し復唱してもコミュニケーション力は身につかない。やはり、英語で議論することを繰り返すことで、最初は日本人同士の議論になるが、次第に使い方が上手になる。