演繹法と帰納法 deduction and induction


英語教育における演繹法と帰納法について考えてみた。今、期末テストの採点をしているが、演繹法と帰納法について次のような学生の答案があった。それを読みながら英語教育を考えてみたい。

学生の答案

演繹法とはルールをまず教え、そのルールを教え、そのルールを基本にして英文を産出してゆくという授業のあり方である。例えば、英語の授業で、「名詞の前に必ず冠詞が付きますよ」というルールを先に教えて、それに沿って、英文を書くように指導する。

それに対して、帰納法は、様々な多くの英文を見せて、原理原則を発見させる授業のあり方である。例えば、たくさんの英文、… a book …, … the chair… などの文を見せて、「あっ、どの文も名詞の前には必ず冠詞がついているなあ」と生徒に気づかせる。自ら原理を見つけさせて、それから英文を書かせるという方法である。

文法を教えるというのは一般的に演繹法である。演繹法で授業をすることは、とても教えやすい。一方の帰納法は時間がかかるし、教員がせっかく準備しても、生徒が原理を見つけならないということもありうる。ただ、発見学習というのはとても力になり、記憶にも残るし、自分で見つけたという喜びにもつながる。生徒の学びには帰納法がとても有効である。それには、教員がどう生徒に気づかせるかという工夫がとても大切になってくる。

上記の答案の評価

以上の様な答案だ。これで十分な答案だと思う。英語の授業における演繹法と帰納法の双方の典型的な特徴をのべていて、きわめて分かりやすい答案になっている。また、近年推奨されている発見学習(これはアクティブ・ラーニングとも関係するのであるが)の意義をも的確に言い当てている。帰納法を用いて、生徒が発見できるようにお膳立てをすることが教員の腕の見せ所である。

教員のお膳立てにのったかたちではあるが、子どもたちが自分で発見できたという喜びは、学問に対する好ましい印象を与えるのであり、是非ともこの教授法を追求してほしい。ただ、帰納法は準備が大変な面がある。「たくさんの英文、… a book …, … the chair… などの文を見せて、『あっ、どの文も名詞の前には必ず冠詞がついているなあ』と生徒に気づかせる。」ためには、実は、提示する資料の選択が大切である。物質名詞 water, air とか抽象名詞 love, sorrow などは冠詞は付かない。これらの言語材料をも含めて雑多な材料を提示すると、子どもたちは、「名詞の前には冠詞が付く」という原則が発見できなくなる。最初の原則を発見してから、次の物質名詞、抽象名詞に進むのである。

このように「名詞の前にはかならず冠詞がつく」という法則でも、物質名詞や抽象名詞が出てきたり、複数形が現れたり、固有名詞や代名詞の話になったりすると、冠詞がつくという原則が見えにくくなる。ゼロ冠詞などという概念を生徒が帰納的に発見できるわけがない。であるから、そんな時には教員が用意する教材は、物質名詞、複数名、固有名詞などが出てこない、統制された内容の言語材料を含む英文になるべきだ。その教材を見せて「冠詞+名詞」という法則を発見してもらう。そして、次の段階で物質名詞に関する発見学習を準備するということになる。いずれにせよ、帰納的な学習は順番を間違えると子どもたちは混乱してしまうので、教員は注意を払わなければならない。

とにかく、うまく教材を準備する必要がある。生徒がその教材に触れていくと、原理原則が自ずから見えてくるように上手に材料を配列しなければならない。配列をしても、ある生徒は直ぐに発見できるが、ある生徒は遅い、あるいは発見できないこともある。そんな個人差にも配慮しなければならない。

日本の伝統的な教授法(演繹法)

なお、日本の教室では伝統的に演繹法が好まれてきた。一斉授業で文法の骨子を教える。順序立てて教えていけば、一番時間の節約となる。ただ、これでは子どもたちが「学問とは先生から教えてもらうもの」という意識になりがちである。何か疑問があったら、よく考えて、いろいろと調べ物をして解決策を見つけるという態度ではなくて、単に先生に聞く、という態度になってしまう。

時々、何でもかんでも質問する生徒がいる。これは教員側からすると困ったと思うこともある。ある程度は考えて、そこで見つけた知見を土台にして質問すれば、教員側も答えやすくなる。

これからの教授法

西洋では帰納法的な授業もかなり推奨されてきた。その教育法から影響を受けて、現代の日本でも、「発見学習」がよく謳われている。だが、これは日本人の文化伝統とは異なる。日本文化に根ざした伝統から言えば、上からの指示待ちの態度が見られるのだ。それは学校に行けば、先生の話をきくだけ、何でも従うということになる。だが、このような学習態度では困るのである。学校では、「ものの見つけ方」を覚えるのである。たとえて言えば、魚をもらうのではなくて、魚の釣り方を学ぶのである。そうすれば、どんなに飢えたときでも生きていけるのである。自分で疑問を持つこと、持った疑問は図書館やネットで調べること。教員を含むいろいろな人に聞いてみること、こんな態度の育成が望ましい。

ただ、単純に帰納法か演繹法かという一つだけ選択の問題ではない。これは相互に関係するのだ。ある程度帰納法で子どもたちが原理原則を見つけたら、教師の方からは、それの発展した原理を教えてもよい。子どもたちが名詞には自力で冠詞の存在が必要だと自力で発見したら、そのときは教員側から、物質名詞、抽象名詞のことまで述べてもよい。その意味では、両方の方法が必要であり、単に一方だけということにはならない。