コミュニケーション能力

学習指導要領で、コミュニケーション能力という言葉が登場したのは、1998年版からである。それ以来、学習指導要領では頻繁にコミュニケーションという言葉が登場する。これは学習指導要領に限らず、いろいろなところで見られる表現である。
たとえば、平成15年(2003年)3月31日に発表された「英語が使える日本人」の育成のための行動計画では、「国際的共通語としての英語のコミュニケーション能力を身に付けることが不可欠です」という文言が見られる。文科省はコミュニケーション能力の育成に取り付かれている、と揶揄したくなるほどである。

日本社会でのコミュニケーション能力

この「コミュニケーション能力」を私なりに解釈しなおしてみる。まず、コミュニケーションとは西洋社会に根付いた概念であり、日本社会には根付きづらいと考えられる。それは西洋には「他人とは分からない存在である。それゆえに、言葉を媒介にして少しでも分かり合えるように努力するのだ」という思想があるのだ。
日本のように、家族社会、その拡大された存在としての村落共同体、会社組織がある。そこでは、「察する」こと、言わずも「分かってもらう」ことが大事である。明言しなくても、自分の真意は伝わる。と考えられている。そのような社会ではあんまり言語能力を鍛えようということにインセンティブが働かない。
それに反して、西洋の教育はどのように自分の考えを論理的に説得力のあるように話すことができるか、その力を育てることが第一義であるとされる。
アメリカでは死刑囚でも堂々と自分の主張をすると聞いたことがある。自分が罪を犯したのは、社会に責任がある。自分はむしろ無責任な社会の犠牲者である、というような主張を堂々と、そして実に説得力のある論理展開で語っていく。これらは小学生の時から自分を表現する訓練をしてきた賜物と感心する(国際社会では、こんな人ばかりなのであり、日本人が自己主張をしながら生きていくとしたらかなりの意識改革が必要である)。

相手を説得できるコミュニケーション能力

相手を説得できるコミュニケーション能力とは、実際のデータに基づいた、明快な論理に基づいた話を、堂々と顔の表情を豊かに語ることである。それゆえに、次の諸点が大事になる。

(1)事実を知っておく。数字などのデータを駆使して具体的に述べること。
(2)説明が明快な流れにすること。自分の考えが論理的であるようにすること。
(3)論理だけの流れでは冷たい印象をあてるので、適宜ユーモアを入れること、とりわけ、最初のice-breaking は必要である。
(4)顔の表情、相手の目を見ること、手の動きなどは大切である。

これらを総合的に考えてコミュニケーション能力と言うのであろう。要は低コンテキスト時代にふさわしいコミュニケーション能力が必要となるのである。
多文化・多言語化してゆく日本社会、終身雇用などが終わりつつある日本社会、これらの社会では、国際的なコミュニケーション能力が大切になっている。文科省はこれらの時代の到来をよく熟知していて、日本人に思考態度を変えなければならないと警鐘を鳴らしているのだろう。学習指導要領はその警鐘の一つであると受けとめたい。