薪能の思い出                   2007-04-07

15年ほど前であったが、父と薪能を見たことがあった。ふだんは能に関心のない父であったが、知人から鑑賞券をもらったので、是非とも見たいと言うので、私が運転手となって能登金剛まで車を走らせた。能登半島の真ん中の日本海側に能登金剛という断崖絶壁がある。ここは松本清張の推理小説『ゼロの焦点』の舞台となった場所で、崖が海岸に垂直に落ちて絶景である。夏は観光客でにぎわうが、冬は日本海から強い風が吹いて、訪れる人も少なくて侘びしい場所となる。能が演じられるのはそこであった。
この日は8月の終わり頃で、晩夏ということになろうか。父と私が到着した時は、もうかなり薄暗くなっていた。絶壁のそばにある能舞台の周りでは、人々が準備に余念がなかった。父は真ん中あたりに席を見つけ、さっそくパンフレットを熱心に読みはじめた。普通の人は、能を見るときは、あらかじめ台本やパンフレットなどを読んでおかないと内容を追いかけることはできないであろう。私も一生懸命あらすじを頭にたたき込んだ。
能登金剛は夕日をあびて美しかった。太陽が水平線に沈んでいくにつれ、あたりがだんだんと暗くなっていく。すると、薪に明かりがともされて、舞台がぱっと明るくなる。その時のパンフレットは保管していないので、詳しい内容は分からないが、旅の僧の物語のように記憶している。シテの舞、謡などが幽玄な雰囲気をかもしだし、父は非常に満足したようであった。
今はなき父の思い出とともに、あの日の薪能、光が徐々に弱まりながら静かに沈んでいった夕日を思い出すのであった。